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早産児で生まれたヘビー級王者の劇的な半生。タイソン・フューリーが赤裸々告白

三浦勝夫ボクシング・ビート米国通信員
ワイルダーを追い込むフューリー(写真:Ryan Hafey/PBC)

フューリー有利は少数派

 試合当日、砂漠のギャンブルタウン、ラスベガスは珍しく雨模様だった。何かが起こる不穏な予感。「もしかしたらフューリーが勝つのではないか?」。そんな胸騒ぎがしてしょうがなかった。

 試合前、いくつかのメディアの勝敗予想をチェックすると、ほとんどが王者デオンテイ・ワイルダー(米)のKO勝ち。挑戦者タイソン・フューリー(英)を支持するのは4階級制覇王者マイキーと兄でトレーナーのロバートのガルシア兄弟、スペイン語メディアESPNデポルテスのアナリスト元複数階級王者フアン・マヌエル・マルケスと彼と放送でコンビを組むホルヘ・エドゥアルド・サンチェス氏のみ。いずれも判定勝ちと占った。だから2度ダウンを奪いTKO勝ちしたフューリーの勝利はサプライズと呼んでいいだろう。

 2月22日ラスベガスのMGMグランドガーデン・アリーナに15,816人の観衆を集めて行われたWBC世界ヘビー級タイトルマッチはフューリーが7回1分39秒TKO勝利を飾った。

ボクサーの父がタイソンと命名

 フューリーといえば、まず試合前後に見せるエンターテイナーぶりが特徴に挙げられる。だが今回の快挙で実力もヘビー級ナンバーワンと評価され始めている。何しろ破った王者ワイルダーはそれまで42勝41KO1分無敗、10連続KO防衛をマークしていた怪物。2015年11月、当時無敵だった3冠統一王者ウラジミール・クリチコ(ウクライナ)を番狂わせで下した一戦に続く偉業をフューリーは達成した。

 クリチコに勝った直後、彼の経歴を調べた。1988年に誕生した彼は早産児で生まれた時、体重が1ポンド(約450グラム)しかなかった。母のアンベルは14回も妊娠したが無事に育ったのはタイソンを含めた男児4人だけ。この時も医師は「生き延びる保証はない」と助言したほど。ボクサーだった父のジョンは心配して「強い男になってもらいたい」という願いを込めて陶酔していた無敵タイソンの名前を命名した。

 人間とはわからないもので早産児だったフューリーは身長206センチ、体重120キロ(今回のワイルダー戦の計量ではキャリアで2番目に重い273ポンド=約124キロを計測)の巨人に成長する。

家系はトラベラー

 成長過程のフューリーも山あり谷ありだった。それは彼のニックネーム“ジプシー・キング”に由来する。このヨーロッパの移動型民族を指す言葉はタブー視されるが、フューリーは堂々と前面に出して使っているし、「ジプシーの子孫としてチャンピオンになれたことに誇りを感じる」とも明言している。

 資料ではフューリーが学校に通ったのは11歳まで。小学校も満足に卒業していないことになる。それでもインタビューで飛び出す冴えたコメントやいろいろな知識はどうやって身につけたのだろうか。もし学歴が事実ならトラベラーだった家庭環境が影響しているのだろう。その後、父、兄弟と道路の舗装工事に従事したとある。

 ボクサーを志したのはジョンの影響。ヘビー級選手でプロの公式試合が13戦8勝1KO4敗1分というジョンだが、非公式の“ベアナックル・ファイト”で勇名をとどろかせた。1試合の報酬が10万ポンド(約1430万円)というからボクシングならチャンピオン級以上。だが宿敵との遺恨試合で、ガウジングという相手の目を攻撃する禁じ手を使い刑務所入りを余儀なくされた。

 現在55歳のジョンはクリチコ戦の時、服役中で息子の快挙に同行できず。その後刑期が緩和されて出所が許されたものの、米国入国ビザが発給されず、今回のワイルダー戦もライブ観戦できなかった。

 そのワイルダー戦では両者がリングインする前、レノックス・ルイス、イバンダー・ホリフィールド、タイソンの前世代のヘビー級トップ3がリングに上がり、会場の雰囲気は最高潮に達した。スタンドの主流はルイスと同じ英国人ファンだったが、一番声援を浴びたのはタイソンだった。狂乱の半生を歩みながら愛情あふれる父からボクシング界のアイコンの名前を授かったフューリー。新旧のタイソンは昨年9月、対談で顔を合わせていた。

タイソン氏と人生の悲哀を語り合ったフューリー(写真:The Sun)
タイソン氏と人生の悲哀を語り合ったフューリー(写真:The Sun)

自殺寸前で思いとどまる

 ユーチューブで流れた映像は昨日現在で200万件以上のアクセス数を記録。今回のワイルダー再戦の快勝で今後もその数は増えると推測される。そこでフューリーは赤裸々な過去を語った。「私の人生にはあまりにも多くの出来事があった」と語り出したフューリー。クリチコに勝ったあと発生した3年近くに及んだブランクに言及した。

 「子供の頃から追いかけていた世界チャンピオンになる夢を叶えた。しかも勝った相手がヘビー級史上2番目の長く王座に君臨したクリチコ。次は何だ?目標を失ったんだよ。27歳にしてね。次の試合で勝とうが負けようがドローでも最後にしようと思っていた」

 クリチコ戦から年が変わった2017年1月、ニューヨークで行われたワイルダーの防衛戦(対アルツール・スピルカ)を観戦したフューリーは試合終了後リングに乱入。得意のトークを炸裂させて統一戦を訴えた。もしこの後ワイルダー戦が実現していればフューリーが“病気”にかかることはなかったかもしれない。だがターゲットを見失ったフューリーは自滅して行く。

 「憂うつになり、不安でしょうがなかった。同時に体重が147ポンド(約67キロ=ウェルター級選手一人分!)も増えてしまった。デーリーベースでドラッグとアルコールを摂取するようになり、私は死んでいた。実際、毎日のように自殺願望に襲われた。世界ヘビー級チャンピオンの重圧がこんなにすごいとは想像していなかった」

 人生最悪の3年――と話すフューリーにはこんなこともあった。

 「ある日、ハイな気分でフェラーリに乗って外出した私は時速190キロで橋に接近していた。そのまま橋に衝突して落ちて死のうと思った。だけど手前まで来た時、声が聞こえたんだ。『ストップ!やめなさい』。それで私は車を片側に寄せ止まった。頭を振り、泣きじゃくり、考えた」

 出来すぎた話にも聞こえるが、彼は本当にイカれていたようだ。話を聞いていたタイソン氏も「私も最年少でタイトルを獲った時を思い出す。幻影との恋に私は落ちていた。世界で最高の女性、豪華なレストラン、すげえ車や飛行機……。私には何でも与えられていた。ちくしょう」と相槌を打つ。

長期政権を築いたウラジミール・クリチコを下したフューリー(写真:ロイター)
長期政権を築いたウラジミール・クリチコを下したフューリー(写真:ロイター)

タイソン氏は自己陶酔するな!

 そこで進行役から「ではタイソン、何が苦境から抜け出すきっかけになったの?」と聞かれたフューリーは迷わず「ボクシング」と答えている。「最後に残ったのがリングへの情熱だった。これまでヤル気をなくすことや横道に逸れることが何度かあったけどフレッシュな空気を吸って立ち直ろうと努めた。人生行路の暗部に入り込みそうな時、救ってくれたのもボクシングだったから」

 自身も波乱万丈のキャリアを送ったタイソン氏は経験からフューリーに忠告を与えた。「いくら頂上に立っても自己愛が強すぎると良くない。自己陶酔してはダメだ。言葉で言うのは簡単だけど、油断していると増長してしまう」

 クリチコ、ワイルダーと大一番で真価を見せつけたフューリー。今度は奈落の底に沈むことはないのだろうか。ドイツで挙行されたクリチコ戦は功績に比べてメディアの扱いは大きくなかった。それに対して今回は試合後もインタビュー依頼が殺到。32歳になり、より成熟した彼が失敗を繰り返すことはないと信じたい。ひとつ気になるのは父ジョンが、このまま引退を勧めていること。何か不幸を予言しているとは思いたくないが……。

ボクシング・ビート米国通信員

岩手県奥州市出身。近所にアマチュアの名将、佐々木達彦氏が住んでいたためボクシングの魅力と凄さにハマる。上京後、学生時代から外国人の草サッカーチーム「スペインクラブ」でプレー。81年メキシコへ渡り現地レポートをボクシング・ビートの前身ワールドボクシングへ寄稿。90年代に入り拠点を米国カリフォルニアへ移し、フロイド・メイウェザー、ロイ・ジョーンズなどを取材。メジャーリーグもペドロ・マルティネス、アルバート・プホルスら主にラテン系選手をスポーツ紙向けにインタビュー。好物はカツ丼。愛読書は佐伯泰英氏の現代もの。

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