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「お金よりもイチゴを数えたい」元銀行マンが"本当の完熟"あまおうを育てる訳

三星舞編集者、ライター、フードコーディネーター

年が明けて間もない頃、愛らしいイチゴのイラストが描かれた小箱が届いた。蓋を開けてみると、真っ赤に熟した大粒のあまおうがずらり! うっとりするような香りに誘われてひと粒ぱくり。濃厚な甘みとコクのある旨みが果汁とともに口いっぱいに広がり、思わず唸り声が出た。このイチゴを育てた人に会ってみたくなり、数日後に福岡の農園を訪ねた。生産者の名は、平田謙次さんと浩子さん。あまおうに人生を懸けて、県外から移住、新規就農した40代の夫婦だ。

脱サラしてイチゴ農家に転身

 福岡県糸島市。少し肌寒さを感じるビニールハウスの中に、完熟あまおうの甘酸っぱい香りが満ちている。実はヘタぎりぎりまで真っ赤に染まり、種のまわりはぷっくりと膨らんで今にもはじけそう。見るからに甘いイチゴが実るこの農園の主は、平田謙次さん。元銀行マンの新規就農者だ。今年1月5日にオープンした直売所は、つみたてイチゴと絶品スイーツが味わえるとあって、すでにリピーターが付いている。

 平田さんは大学卒業後、地元の銀行に就職。法人融資や営業を担当する中でさまざまな業界の経営者と出会い、次第に「いつかは自分で事業を始めてみたい」との思いを抱くようになった。具体的な事業内容は決まっていなかったものの、〝何かをする時のためのお金〟は貯めておいた。何かしたい。でも、何がしたいのかは分からない。妻の浩子さんと「自分たちが好きなものを扱える仕事をしよう」と相談を重ねるうちに、頭に浮かんだのはイチゴ。味が好きだし、家族でのイチゴ狩りも楽しかった。農業は大地を耕す仕事だ。家族で地に足を付けた暮らしができるのではないだろうか。それに、どうせ数えるなら、お金よりもイチゴを数える方が自分には合っている気がする…。そう考え、農業やイチゴ栽培に関するリサーチをし、就農フェアに参加するなどの準備を経て、新規就農を決めた。

 「福岡は全国で2番目にイチゴの生産が盛んな土地です。技術者やベテラン農家がそろっているし、何より県限定のブランドイチゴ・あまおうがある。だから、イチゴ農家になるなら絶対に福岡がいい!と思って」と平田さん。八女、久留米、岡垣、宗像など福岡県内のイチゴ農家を飛び込みで訪ねて回り、現場の生の声を聞かせてもらった。各土地の気候や日照、利便性を比較して選んだのは、九州最大の都市・福岡市へのアクセスが良好な糸島市。「最後は、まぁ何とかなるだろうという気持ちで一歩を踏み出しました」。

 2014年10月に銀行を退職し、翌年1月には福岡県糸島市へ移住。農業研修を受ける傍ら、農地と新居を探すために手製の家族プロフィルを「とにかく一帯に配りまくりました」と平田さん。「生年月日や電話番号、家族構成、僕の経歴など何もかもをさらけ出して、変な者ではありませんとアピールしたわけです(笑)」。土地探しは新規就農の大きなハードルとされるものの一つ。しかし、このプロフィル作戦が功を奏したのかすぐに土地と家屋が見つかり、その年のイチゴ栽培を滑り込みで始めることができた。移住からわずか4カ月後のことだった。 

イチゴの力を信じて育てる

 就農直後はJAのイチゴ部会に所属したものの、収量を求める栽培方法に自身の理想とのズレを感じ始めた平田さん。「これはシステム上仕方のないことなのですが、流通に乗せるために完熟の2・3歩手前で収穫しなければならないのもジレンマでした。もう少し待てばもっとおいしくなるのに、って。量よりも味を追求したいと思うようになったんです。部会のみなさんには大変お世話になったので申し訳なさがあったし、部会に所属している方が経済的な安心感もあるのですが、自分が満足できる味のあまおうで勝負してみたい思いが強かった」。

 イチゴ部会を抜け、2021年からは栽培方法を転換。農薬散布の回数を減らすため、植物性の堆肥を用いた土作りで健康な苗を育てることに注力。ハウスの加温や電照をやめ、水やりもほとんどしない。「イチゴって、花が咲いてから実を付けるまでに時間をかけるほど養分を蓄えて、甘くなるんです」と平田さん。ゆっくり、ゆっくり、赤くなったイチゴはおいしい。だから、暖房や電照で成長を急がせたりはしない。苗には土中から自力で水分補給させたいから、高設栽培ではなく地植えで育てる。「そんなやり方じゃ失敗するだろうと周りから思われているかもしれません。でも、うちのイチゴはそんなにヤワじゃないはず。イチゴの力を信じています」。

 平田さんの農園では今、栽培方法を転換して初めての収穫シーズンを迎えている。周囲のハウスでは11月から収穫が始まる中、平田さんのあまおうが採れ始めるようになったのは12月下旬だった。浩子さんは「収穫量が下がることも、実の成長に時間がかかるのも分かっていたけれど、でも、やっぱり、ドキドキしました」と胸を抑える。一番果は大きいものだと手のひらほどのサイズで、ヘタぎりぎりまで真っ赤に完熟。平田さんのあまおうは、その名の由来である〝あかい・まるい・おおきい・うまい〟を見事に体現している。

大変さも喜びもダイレクトに

 1月5日、直売所のオープンを機に、農園と店を「slowberry strawberry」と名付けた。キャッチフレーズは「スロウに育てて、すぐに食べると、ベリーおいしい」。店頭にはその日の朝に収穫したばかりのイチゴが並ぶ。料理家・広沢京子さん監修のイチゴスムージーや、高山由佳さん監修のいちご大福、いちごサンド、いちごジャムのテイクアウトも可能だ。

 開店から1カ月も経たないうちに遠方からの来客もあり、すでにリピーターも付いている。「うちはイートインできないので、店頭で購入して、車で1粒食べて、すぐに店に戻って追加購入して…なんてこともあります。おいしかったから孫に送ってあげようと思って、と再来店してくださる方も」と平田さん。隣で頷く浩子さんと顔を見合わせ、「めちゃくちゃ嬉しいよね!」。

 銀行員時代と比べて、家族の暮らしはがらりと変わった。転職についての感想を平田さんに尋ねると「行員はお給料も良かったし、やりがいもありましたが、それでもやっぱり農家になって良かったと思っています。まぁ、朝はすごく大変だけど…」と浩子さんをちらり。

 現在、2000平方メートルのイチゴ畑を夫婦二人で管理。直売所を開いてからは浩子さんが菓子作りも担うようになったため、ふたりで朝4時半には起きてイチゴの収穫を始める。浩子さんは「まだ薄暗い中でスイーツに向く形のイチゴを選んで、収穫して、10時の開店に間に合わせるために必死で菓子作りをしています。並行して子どもたちの朝の支度もしなきゃいけないから、もうバッタバタです」と苦笑い。

 「でも、新しい栽培方法を始めてから、子どもたちがうちのイチゴをおいしいって食べるようになったんです。1人で1パック完食することもあります。店に来て、スムージー2杯ねって注文してきたり(笑)。そんな姿を見てると、農家になって良かったかなと思えます」。大変さも、喜びも、ダイレクトに感じる新しい暮らし。日々の汗はきっと、何事にも代え難い人生の喜びの糧となるはずだ。

平田謙次(ひらた・けんじ)

1977年、山口県生まれ。銀行員を経てイチゴ農家に。「slowberry strawberry」園主。

平田浩子(ひらた・ひろこ)

1980年、神奈川県生まれ。「slowberry strawberry」店主として菓子製造も手がける。

slowberry strawberry

福岡県糸島市神在西3-9-56

電話 092-332-7547

営業時間 10:00 ~ 17:00 (商品がなくなり次第終了)

定休日 水曜日(営業は1~5月下旬のイチゴシーズン限定)

https://www.slowberry.net

写真・文・スタイリング(いちご大福):三星舞

編集者、ライター、フードコーディネーター

雑誌「九州の食卓」副編集長を経て、フリーのエディター・ライターに。食に関する興味が旺盛で、料理と器も好き。九州中を駆け巡って各地のおいしいもので胃袋を満たしてきた経験を生かし、フードコーディネーターとしても活動中。

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