『遠くへ行きたい』と永六輔さんの旅
去る7月7日、永六輔さんが亡くなった。83歳だった。1933(昭和8)年生まれの永さんは、草創期からテレビに携わり、放送作家、作詞家、タレント、また作家としても活躍してきた“異能の人”だ。
そんな永さんに対するイメージは、多分、世代によって違うと思う。「ラジオを聴いていた」「NHKのバラエティで見た」という中高年もいれば、「知らないよ」という若者もいるだろう。
私自身は、中学生だった60年代後半に、ラジオの深夜放送『パックインミュージック』(TBS)で永さんを知った。もちろんその頃は、後に実物の永さんにお目にかかることなど思いもしなかった。
80年代のはじめ、20代半ばの私は、番組制作会社「テレビマンユニオン」に参加した。新米のアシスタント・ディレクターとして修業の日々を過ごした番組が、『遠くへ行きたい』だった。永さんが、当時は赤坂一ツ木通りにあったテレビマンユニオンのオフィスに立ち寄った際、ご挨拶させていただいたのが初対面だ。
やがて私も、『遠くへ行きたい』のディレクターを務めるようになった。ディレクターは一人で、事前取材(ロケハン)のために現地を訪れるのだが、納得のいくネタが見つからず、途方に暮れることがある。
そんな時、励まされたのが、「知らない横丁の角を曲がれば、もう旅です」という永さんの言葉だ。旅番組の作り手ではなく、ただの旅人の気持ちで町を歩き直してみると、不思議なくらい魅力的な人やモノに遭遇することができた。
旅人をカメラが追った『遠くへ行きたい』
「萩元さん、ひとつ仕事をお願いできますか?」・・・テレビマンユニオンの創立メンバーだった萩元晴彦さんに、そんなふうに声をかけてきたのは読売テレビ東京支社長(当時)の中野曠三さんだ。場所は銀座のバー。70年2月のテレビマンユニオン結成から、まだ間もないころの話である。
その“お仕事”とは、当時、「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを展開しようとしていた国鉄(現JR)をスポンサーにした、新しい旅の番組だった。中野さんは、萩元さんの飲み友達だったが、『巨人の星』『細腕繁盛記』などを手がけた辣腕営業マンだ。「お話を承ります」と言って、ノートを拡げて身構えた萩元さん。それが、現在も放送中の『遠くへ行きたい』が生まれた瞬間だった。
萩元プロデューサーは、この番組を、名所旧跡と名物を見せるような“旅行番組”にはしなかった。“旅のドキュメンタリー”としたのだ。萩元さんと共にテレビマンユニオンを興したメンバーで、初期の『遠くへ行きたい』を演出した今野勉さんによれば、それは「移動する旅人を撮ることであり、旅人と旅先で出会った人との会話を撮(録)る」番組だった。まだ小型ビデオカメラがない時代で、ロケは16ミリのフィルムカメラで行われた。
放送開始当初、この番組のタイトルは『六輔さすらいの旅 遠くへ行きたい』だった。スタートからの半年間、カメラは旅をする永さんをひたすら追い続けた。ドキュメンタリーにおいて、ドラマのような“迎え撃ち”の映像などあり得なかった時代だ。カメラは常に永さんの背後からついてきた。
その後、永さんは番組を抜けることになるが、五木寛之さん、野坂昭如さんなどの作家や文化人が“旅する人”として続々と登場。予定調和とはほど遠い、異色のドキュメンタリーとして評判になった。やがて、渡辺文雄さん、藤田弓子さんといった旅巧者のレギュラー陣も視聴者の間に浸透し、現在まで46年も続くことになる長寿番組の基礎が固まっていったのだ。
永さんからの「返信」
東日本大震災があった2011年の秋に放送されたのが、『ヒューマンドキュメンタリー 永六輔 戦いの夏』(NHK)だ。制作は、テレビマンユニオン。
この時、78歳の永さんはパーキンソン病と前立腺がんを抱えていた。TBSラジオの『誰かとどこかで』を私もよく聴いていたが、ある時期、永さんの話を聴き取ることが困難だった。番組では、そんな永さんがラジオのマイクの前にすわり、京都のイベントをリードし、東北の被災地へと足を運んでいた。その姿から目が離せなかった。
信州在住の高校生だった頃、永さんに手紙を出したことがある。書いた内容は覚えていない。ただ、永さんから返信が来たことに驚いた。葉書に筆文字で、「まるも(松本に現在もある喫茶店)のことなど懐かしい」とひと言。後から、あれほど忙しい永さんが、送られてきた手紙にはすべて返事を書くことを知って、また驚いた。
当時多くのリスナーにとって、ラジオは基本的に一方通行のコミュニケーションだった。しかし、電波の向こう側から一枚の葉書が届いたことで、それはリアルにして忘れられない“双方向”となったのだ。
『永六輔 戦いの夏』を見ながら思った。病いと戦いながらの京都行きも、被災地めぐりも、永さんから、これまで接してきた人たちへの「返信」ではないのか。自らそれを届けて回っているのではないか。そして、テレビには出ないと公言していた永さんが、カメラにこれだけ身をゆだねたのもまた、テレビ草創期からの“つながり”に対する、感謝を込めた返信ではないか。そんな気がした。
遺された「言葉」
かつて大ベストセラーとなった、永さんの著作『大往生』(岩波新書)。自らの死の22年も前に、61歳でこんなタイトルの本を上梓したのが、いかにも永さんらしい。
しかし、私にとって最も大切な永さんの本といえば、1972年に文藝春秋から刊行されたエッセイ集『遠くへ行きたい―下町からの出発』(のちに文春文庫)である。自身が生まれ育った浅草や、旅暮しの中で感じたあれこれを書き綴っており、旅人・永六輔の原点ともいえる一冊だ。
軸になっているのは、雑誌『暮しの手帖』での連載だ。現在放送中のNHK朝ドラ『とと姉ちゃん』で唐沢寿明さんが演じている花山伊佐次のモデル、“伝説の編集者”花森安治が編集長を務めていた。
当時39歳の永さんにとって、『暮しの手帖』からの、いや花森安治からの執筆依頼は目標の一つだった。しかし、実際に始まってみれば、「(花森安治に)何度も書き直しをさせられ、やっと受けとってくれたかと思うと、受けとることと載せることは違うのだということを教えられた」という。もの書きとしての永さんは、花森安治に鍛えられたのだ。
この本で、「僕の旅はやっぱり、我家に帰ってくる旅なのである」と書いていた永さん。今ごろは、14年前に他界した、妻の昌子さんとご一緒だろう。そう、永さんは長い旅を終えて、ようやく我家に帰ったのである。