【深読み「鎌倉殿の13人」】畠山重忠が北条時政の娘を娶った当然の理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の21回目では、中川大志さんが演じる畠山重忠が登場した。重忠は北条時政の娘を娶っていたが、その理由について詳しく掘り下げてみよう。
■畠山重忠とは
畠山氏は桓武平氏の流れを汲む一族で、秩父重弘の長男・重能が武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、「畠山」を名字としたことにはじまる。
平治元年(1159)の平治の乱で、重能は平氏に与した。以降、武蔵国が平氏の知行国になったこともあり、重能は平氏に従うことを余儀なくされた。重能は京都大番役を務めるため、上洛することもあった。
長寛2年(1164)、畠山重忠は重能の子として誕生した。治承4年(1180)、源頼朝が以仁王の「打倒平氏」の兵を挙げると、重忠は平氏に従って、頼朝を討伐すべく出陣した。その後、頼朝は石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れ、敗走したのである。
■頼朝に従った重忠
頼朝は石橋山に戦いで敗れたものの、やがて勢いを盛り返し、東国の有力な豪族を次々と配下に収めた。同年10月、重忠は河越重頼、江戸重長らとともに頼朝に帰伏し、これを認められたのである。
寿永2年(1183)以降、頼朝による平家への討伐が本格化した。以後、重忠も平家討伐の軍勢に加わり、平家を滅亡に追い込む立役者の一人となった。その間の戦いぶりは誇張があるものの、『平家物語』などに詳しい。
その後、頼朝は義経と対立して、これを奥州平泉で討伐。文治5年(1189)、頼朝は奥州藤原氏を討伐すべく出陣すると、重忠もこれに従って、大いに軍功を挙げた。こうして、重忠は頼朝の厚い信頼を得た。
ドラマ内でも随所に披露されているとおり、重忠は歌舞音曲に優れていたという。文治2年(1186)、捕らえられた義経の愛人・静御前が鶴岡八幡宮で舞いを舞ったとき、重忠は銅拍子を担当し伴奏を務めた。
頼朝は、青少年期を都で過ごしていた。おそらく、白拍子の舞いや音楽などに高い関心があったに違いない。そういう点も、重忠が重用された理由の一つかもしれない。
■まとめ
重忠は最初こそ頼朝に与同しなかったが、その後は帰伏した。頼朝が重忠を許したのは、貴重な軍事力になりうると考えたからだろう。もちろん、重忠が頼朝に忠誠を誓ったからでもある。
重忠は頼朝の期待に応え、各地で大いに軍功を挙げた。そんな重忠だったので、頼朝はいっそう関係を強化するため、舅の北条時政の娘を娶らせようとしたのである。