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【深読み「鎌倉殿の13人」】石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、いかにして態勢を立て直したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、いかにして態勢を立て直したのか。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第6回では、源頼朝が大庭景親に敗れたあとのことを取り上げていた。実際、敗北後の頼朝がどうやって復活したのか、改めて検討することにしよう。

 なお、石橋山の戦いについては、こちら

■敗北後の源頼朝

 治承4年(1180)、源頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に敗れ、逃亡の途についた。頼朝は真鶴岬(神奈川県真鶴町)から船に乗り、相模湾を渡って安房国猟島(千葉県鋸南町)にたどりついた(到着地については、洲崎〔千葉県館山市〕という説もある)。

 頼朝が安房を目指したのには、もちろん理由があった。頼朝が頼りにした豪族には、現在の千葉県に勢力を保持した千葉氏がいた。頼朝は安房に渡ることで、彼ら豪族の助力を得ようとしたのである。

 頼朝の考えは、上総、下総、武蔵の豪族を味方として組織し、態勢を整えようとした。そして、安房から陸路を通って、父祖とゆかりのある鎌倉(神奈川県鎌倉市)を目指そうとしたのだ。

■頼りになった上総広常

 再起を期す頼朝が大いに頼りにしたのは、上総広常である。広常はその名のとおり、上総国衙を掌握する東国指折りの豪族で、父の常澄は源義朝(頼朝の父)に従って保元の乱に出陣していた。彼の力なくしては、とても打倒平氏は叶わなかった。

 当時、広常が率いていた軍勢は、約2万といわれている。頼朝が石橋山の戦いで負けたときは、たった300ほどの軍勢しかいなかったのだから、まったくのケタ違いである。

 安房に上陸した頼朝は、武蔵・上野・下野の有力な豪族、小山朝政、下河辺行平、豊島清光、葛西清重に書状を送り、参向するよう要請した。

 そして、和田義盛を広常のもとに、また安達盛長を千葉常胤のもとにそれぞれ遣わし、頼朝のもとに参上するよう伝えた。この要請に対して、広常は常胤と相談のうえ、参上すると回答を寄こした。常胤は先に鎌倉に向かい、頼朝を迎えるために参向すると答えた。

■進軍した頼朝

 同年9月13日、安房を発った頼朝は、上総を経て下総に入り、国府台(千葉県市川市)で常胤の軍勢と合流した。常胤の率いた軍勢は、約300といわれている。

 同年9月19日、2万の軍勢を率いた広常は、隅田川で頼朝の軍勢と合流した。その際、頼朝は広常の遅参を厳しく叱責したので、広常は頼朝の将としての器に敬服したと伝わっている。一説によると、広常は頼朝に将としての器がない場合は、討ってやろうと考えていたという。

 広常が頼朝に与したのはほかでもない。平氏の有力な家人の伊藤忠清が上総介となり、広常は国務をめぐって忠清との間にトラブルを抱えていた。こうした苦境を打開すべく、広常は頼朝の打倒平氏の挙兵に応じたと考えてよいだろう。

■さらに集まった豪族

 打倒平氏の頼朝の動きは、京都の平氏にも伝わった。平氏から追討の兵が送り込まれるのは、もはや時間の問題だった。頼朝は、さらに東国の諸豪族に味方になるよう使者を送った。

 同年9月20日、頼朝は甲斐に使者を派遣し、武田信義、北条時政に駿河国黄瀬川に出陣するよう命じた。そのほか、江戸重長、新田義重といった有力な豪族にも出陣するよう要請した。小山宗朝(朝政の子)、河越重頼、畠山重忠らも頼朝に恭順の意を示した。

 頼朝は広常の協力を得ていたので、すでに約2万7千の軍勢を組織していたが、その後も諸豪族に出陣を要請したことで、その軍勢は約5万になる目算が立ったのである。 

■むすび

 こうして頼朝は、同年10月6日に晴れて鎌倉へ入った。この頃になると、頼朝は東国一帯の名立たる諸豪族をほぼ配下に収めたといっても過言ではなかった。この直後、頼朝が率いる軍勢は平氏と対決するが、その点は改めて論じることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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