大阪万国博覧会は、なぜ成功したのか ~ 予算と工期がきっちり
・大阪万博を成功に導いたのは・・・
1970年の大阪万国博覧会を支えた人たちと言うと、堺屋太一氏、岡本太郎氏、磯崎新氏、丹下健三氏といった面々が取り上げられるが、もちろん彼らだけではない。
1964年、東京オリンピックが開催された年、「万国博を考える会」というのが立ち上がった。政府の組織でもなければ、開催に関わる広告代理店やシンクタンクなどが主催したものではない。
・民間の自主的な集まり「万国博を考える会」
1964年7月、大阪生まれで大阪に在住していたSF作家である小松左京氏は、京都の旅館に呼び出された。
「顔ぶれは、当時大阪市立大学の助教授だった梅棹忠夫氏、京都大学人文研の加藤秀俊氏、それに当時、大阪朝日放送の出版課長で「放送朝日」の編集長だったN氏、同じく当時、朝日放送の営業にいたY氏だった。」(小松左京、「やぶれかぶれ青春記」、旺文社、1975年。)
これがきっかけとなり、小松左京氏に加え、梅棹忠夫氏(人類学者)、大谷幸夫氏(建築家)、大原総一郎氏(実業家、大原美術館理事長)、加藤秀俊氏(社会学者)、手塚治虫氏(漫画家)、星新一氏(SF作家)、真鍋博氏(イラストレーター)など、当時新進気鋭の人々が集まって、「万国博を考える会」が開催された。今から見ても、世界的にも知名度が高く、非常に豪華な顔ぶれだ。
彼らが自主的に集まったというのは驚きだが、それだけ当時、「万国博覧会」が社会、経済、文化に大きな影響を及ぼすものとして評価されていた。さらに1960年代には大阪の出版界、新聞界、テレビ界などが東京に伍する力があり、大学研究者、作家、実業家、文化人など幅広く、層の厚い民間人材が関西地方に集めることができたことが判る。
・世界各国に40名ほどの若い研究者を派遣して展示品を収集
1965年に博覧会国際事務局(BIE)が日本での万国博覧会開催を正式決定した。政府は、財団法人日本万国博覧会協会を設立させ、開催準備を本格化させる。
非公式かつ民間の自主的な集まりであった「万国博を考える会」は、次第に万博のテーマを決める委員会の人事に大きく影響を及ぼすようになる。
岡本太郎氏の「太陽の塔」を支え、反対する当時の通商産業省と対峙したのも、この「万国博を考える会」のメンバーたちだった。岡本太郎氏は、「芸術は爆発だ」という言葉で知られる芸術家であるが、同時に文化人類学・民族学学者でもある。
「太陽の塔」は、その巨大さと外観にばかり注目が集まるが、実は万博開催時のテーマ展示として地階の展示に岡本氏に加え、「万国博を考える会」のメンバーたちが力を注ぎ、展示品を収集するために、世界各国に40名ほどの若い研究者を派遣している。現在の国立民族学博物館は、この時に収集したコレクションを基にしているのだ。
さらに、このテーマ展示に関しては、日本館を重視する通商産業省が、それ以上に目立つものを作るために予算を割くことを嫌い、大幅な予算削減を突き付けてきたものを、「万国博を考える会」のメンバーたちが中心となり、粘り強く交渉を続けたことが、小松左京氏の残した資料から判っている。(小松左京ライブラリ、「EXPO‘70「万国博を考える会」幻の資料紹介」より)
・成功の理由は「予算がきっちりあったこと」、「工程管理が非常に正確だったこと」
さて、通商産業省側のトップが、堺屋太一(池口小太郎)氏だった。堺屋氏は、1979年に出版された「私の関西経済論」(関西経済センター編、1979年)の中で、大阪万博が成功した理由として、次のように述べている。
「まず第一に、予算がきっちり合いました。」
「会期は条約によって180日に決まっているということだけである。それでいくらかかるという金額を出せというのですから、かなりムリな話である。仕方がないから無茶苦茶にでっち上げる。」
「私達は529億円という数字を出しました。人を信用させるにはなるべく端数がついていた方がいい。」
「結局、529億円というのはわかったということになると、今度は収入を詰める。補助金が292億円要る。そういうふうな数字で始めたわけです。ところができ上がりは528億8,400万円でできた。誤差率はものすごく少ない。」
こうした予算を管理できた理由として、堺屋氏は自身が導入した「プロデューサー組織の効果」だと自画自賛している。確かに1960年代後半から、日本でもインフレ率が高くなり、物価が上昇する中で、計画通りに予算を収めたことは特筆に値するだろう。
もちろん、この「プロデューサー組織の効果」も大きいが、先に述べた「万国博を考える会」のような民間組織が、早くから予算を試算したり、官である万博協会と繰り返し交渉したりしたことも大きく影響したと言える。
堺屋氏は、さらに3つの理由を挙げている。まず、開会までの時間つまり工期の正確さだとしている。
(これまでの他国での万博では)「開会式後一週間ぐらい経ったら全部揃うというのが普通ですが、日本の場合は、開会の52時間前に全部完成しました」とし、そのために開会前に各国大使やマスコミ関係者を招待することができたと述べている。
さらに、会期中に事故が少なかったことを次に挙げ、最後に「何より大事なことですが、大変儲かりました」と収益性の高さを指摘している。
会期中の入場者は、想定の3,000万人を大きく超し、6,400万人となり、入場料収入は大幅に増加した。さらに、会場内での物販も大きく伸び、販売手数料収入(5%)も予想を大きく超した。結果的に、これらの「儲け」は174億円と、当初予想を大きく上回った。
つまり、堺屋氏は、大阪万国博覧会の成功の理由を、厳格な「予算管理」、正確な「工程管理」、「安全管理」そして、「収益性の確保」にあったとしているのだ。
・社会情勢も追い風
もちろん、当時の社会情勢も成功を支えた。当時のことを知るある企業の元経営幹部は、筆者に「当時は、関西の企業の多くがオーナー経営であり、株主の目を気にすることもなく、金も出しやすかった。さらにこれから海外に輸出をしようという意欲にあふれていた。国内外に自社のブランド、製品をPRするのに、万国博覧会は大きなチャンスとして捉えていた」と話した。
それだけではなく、日本の人口が急増した時期であり、経済活動も活発だった。
新幹線の新大阪駅から万博会場への輸送を担っていた北大阪急行電鉄は、一夜にして行き先を千里中央駅に変え、千里ニュータウンからの通勤通学輸送を担うことになった。つまり、大阪万博のために作られたインフラの多くは、急増する人口を吸収するために開発された千里ニュータウンのインフラとして転用することが可能だったのだ。
・大阪万博は、トラウマ? 成功体験?
大阪万博によって、大阪には関連事業費約1兆円(うち政府投資6,300億円)が投じられ、道路、鉄道などのインフラ整備が進んだ。大阪だけではなく京都、神戸などにもホテルの新設、増設が進み、日本中から観光客が押し寄せた。万博で紹介された海外製の新たな食品や家電機器なども人気となり、消費ブームは、百貨店や商店街などに好景気をもたらした。
しかし、大阪万博以降、関西経済は衰退の一途を辿ることになる。1973年に第1次オイルショック、1978年には第2次オイルショックが始まり、石油価格が高騰し、日本経済は悪化する。
さらに日米貿易摩擦によって、大阪の主力産業だった繊維産業の急速な衰退が起きる。また、新幹線の延伸や国内航空路の拡充などにより、大阪は西日本の中核都市、集散地としての地位を低下させていった。
「大阪万博は関西にとってトラウマ」という意見と、「大阪万博当時は関西経済が華やかな時代だった」という意見が混在するのは、華やかな万博当時の思い出と、その後の不景気と関西経済の衰退による「一人負け」状態が両方あるからだろう。
「日本万国博覧会は非常にうまくいったと思います」と言う堺屋氏ですら、「いわゆる文化とか産業とかいわれるものはあまり残りませんでした。少なくとも開催地に強烈に残ったという印象はありません。これは諸外国の開催した万国博覧会に比べても、大変な違いです」と不満を述べている。(「私の関西経済論」関西経済センター編、1979年。)
いずれにしても、層が厚く豊かな民間人材によるアイデア、官僚の管理、そして時代背景が、1970年の大阪万博の成功に繋がったことは間違いない。
1970年の大阪万博の評価は、それぞれだとしても、成功の要因については、1970年大阪万博と、現在とを、比較、検討することも大切ではないか。