女性の活躍が新たな「多様性」を創造する…日本の成長と変革は「多様性」から生まれてきた!
ここで大胆な仮説を提示してみたい。
日本は単一民族で、多様性に乏しいといわれることが多い。
だが、実は近代以降の歴史において、日本の発展は、「多様性」を活かして、社会的イノベーションを起こして生まれてきたものではないかと考えられる。その意味からすると、日本は実は「多様性」に富んだ社会なのではないか。
日本の近現代史を考えた場合、その成功事例は何かといえば、思いつくのは2つある。まずは、封建制の江戸時代から近代国家に大きく変貌を遂げた「明治維新」である。もう一つは、敗戦から立ち直り、日本を世界第二の経済大国に押し上げた「高度経済成長」であろう。
ではなぜ「明治維新」が成功したのであろうか。「黒船」という外圧の存在、江戸時代の教育水準の高さや幕末から明治期に現れた多くの人材の出現等々、多くのことが考えられる。
だが、一般的にあまり指摘されないが、非常に重要なことがある。それは、江戸時代は、300有余の諸藩があり、各藩は現在でいえば別々の国のような存在であったことだ。そこでは、言葉も文化も、貨幣も様々な制度や仕組みの異なり、実に多種多様なものが存在していたのだ。その異なる藩で生まれ、育った人財は、正に今でいえばお互いに「外国人」のような存在だったといっても過言ではないだろう。
それらの「外国人」が、江戸の幕藩体制が弛緩、崩壊する過程で、藩という「国境」が薄れ、相互にぶつかり合い、競争し合うようになったのである。そこから生まれた多様性のぶつかり合いが、イノベーションを生み刺激し、日本社会全体に活力を創り出し、明治維新を成功させたのだ。正に、「多様性」がイノベーションを生み、日本の近代化と発展をもたらしたのだ。
次に、戦後の高度成長はどうであろうか。日本は、近代化に成功し国際的にも有力な国の一つとなったが、第二次世界大戦に敗北し、その国土は灰燼に帰した。そして、ゼロから、国土の発展を再度図らねばならなかったのである。
その際、地方の人財を、教育や仕事などを通じて、東京に集めた。そこでは、全国の多様な人財を、東京に集積し、そこに生まれた「多様性」が、相互に切磋琢磨、競争し合い、イノベーションが生み、経済が活発化し、高度成長が実現し、それに成功したのだ。つまり、明治維新時とは異なる「多様性」によるイノベーションを生み出したといえるのだ。
このように見てくると、日本は、近現代において、「多様性」を基にイノベーションを起こし、何度も発展してきたことがわかる。
他方、この2、30年は、「失われた20年」とか「失われた30年」とかともいわれるように、1990年代のバブル経済の崩壊以降は、日本社会から活力が失われてきたように見える。
その状況を改善するために、多くの試みや努力もされてきたが、その成果は必ずしも生まれてきていないといえる。それはなぜか。筆者からすると、それは、先に示した事例のような日本社会において有効なアプローチである、「多様性」を活かして、イノベーションを起こす試みをしていないからではないか、と考える。
戦後の国土開発の「均てん化」政策や教育政策などによって、日本国内に「外国」は存在しなくなっており、明治維新の時のアプローチは取れない。
また、多くの人財が東京に集積してしまっているので、戦後の東京に全国の人材の集め「多様性」を生み出すアプローチもとれない。
では、どうすればいいのだろうか。
その点において、筆者は、「女性の活用」こそが、日本社会に新たなる「多様性」を創り出し、新たなるイノベーションや社会の活力を生み出してくれるものと考えている。女性は、これまでは主に特定の領域だけでしか活かされてこなかった面が多い。ある意味日本社会の「隠れ資産」となってしまっていたのである。
その女性を、全面的に、日本社会に活かしていくことは、日本社会に新たなる「多様性」を生み出すことになる。それは、現在の日本社会は、男中心の制度や仕組みで作られており、女性がそこに全面的に参加(もちろん、あくまでも女性それぞれの意志と意向を尊重した上でであるが)するためには、それらの全面的な造り替えが必要になるわけであり、そのことは、当然に日本社会に新たな「イノベーション」や変革を生み出すことになるのである。
このように日本の近現代における第三番目のイノベーションや社会変革は、女性の社会における全面的参加から生まれる新たなる「多様性」が生まれるのではないだろうか。
これは筆者のある意味大胆な仮説である。読者の皆さんはどうように思われるだろうか。ぜひ皆さんのご意見を伺いたいところだ。