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樋口尚文の千夜千本 第22夜「花とアリス殺人事件」(岩井俊二監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
女子高生たちと岩井俊二(撮影=樋口尚文)。

岩井俊二のいけない少女性が駆けぬける

ちょうどこの作品の仕上げも大詰めの時に、NHK Eテレの映画トーク番組「岩井俊二のMOVIEラボ」の収録でご一緒することがちょくちょくあったので、私は幾度か『花とアリス殺人事件』が早く観たいなあということを岩井さんに聞えよがしに呟いていたのだけれども、そのたびに岩井さんはいくぶん沈痛な表情で、いやあどうしても細かいところが思うようにいかなくて、公開も迫ってきているのに焦っているんですよと例のぼそぼそっとした口調で答えるのだった。要は、岩井監督は従来のアニメの定式から解放されたタッチを盛り込みたいのだが、アニメというのはどうしても職人的な描き方のメソッドというのがしみついていて、そこを外れたやり方がなかなか受け入れられないという壁があるらしい。

かつて『スワロウテイル』のコンテを岩井監督からもらった時に、その画角はもとより映像化で目指すべきけはいまで視覚化されているかのような画の巧さに唸って、こんなカッコいい画が描けてしまう岩井さんはきっと(同学年的な言い方をすれば)『Love Letter』の藤井樹のように授業中ノートの端にさんざんマンガを描きまくってこの筆力とセンスを身につけたのだろうなあと妄想したが、『花とアリス殺人事件』にも「石ノ森学園」にはじまり「火の鳥」「W3」「宇宙少年ソラン」「河童の三平」などなどマンガの記号がそこらじゅうに撒かれていた。こんなにマンガが好きなんだから、好き放題のアニメ的語彙で一本アニメを作ってみたいというのは当然の夢ではないかと思うのだが、そんな岩井監督がアニメ特有の表現の保守性やお作法、お約束とぶつかりながらこしらえた本作は、なるほどちょっと見たことがないようなスマートで繊細なタッチがそこかしこに感じられた。

実は初号試写にもお招きを頂いていたのがどうしても時間が合わず、私が見たのは「女子高生限定最速試写会」(!)というものだった。これは本当に最速の一般試写でもあったのだが、話によると岩井監督は初号の後も徹夜で直しを入れていたので、この世で正真正銘の完成品を最初に観るのはなんとこの女子高生と私であったという。それもありがたいことではあったが、加うるにこの女子高生たちに紛れて観るという経験も決して悪いものではなかった。というのは、まさに描かれている花とアリスの世代に近い少女たちの反応がつぶさに伝わってきたからだ。その結果、感じられたのは(この日、岩井監督とトークをしていた女子高生の女優さんも言っていたが)なぜ岩井監督はこんなにティーンの、しかも女子の気分や雰囲気がリアルに描けているのだろうという感嘆である。

だが、当然ながら岩井監督が今の女子中高生の感受性のリサーチに余念がないとか、そんなことはあろうはずもないわけで、話はくだんの映画トーク番組に戻るのだが、番組のゲストでまさに花=鈴木杏とアリス=蒼井優のお二人がスタジオに現れたことがあった。そこで岩井監督の作品は少女マンガっぽいと言われることをどう思うかという問いに、蒼井優さんが「少女マンガ的とは思わないけれど、オジサンの中のいけない少女性が露わになっていて、そこが愛おしい」と言うものだから、私も膝を打って「世界じゅうの生き物のなかで一番乙女なのはオジサンですからね」と応えたら、SNSでも大いに賛同の声があがった。実はこの説を私はずっと前から事あるごとに蒼井さんとまるで同じ表現で語ってきたのだが、これは大いに気になるテーマである。つまり、岩井監督が女子中高生のことをよく調べるまでもなく、岩井監督の一部がすでに女子中高生そのものだということである。

この作家が少女というモチーフに”萌える”のではなく、少女として”萌える”という現象を、源流としては大林宣彦監督、高林陽一監督といった個人映画作家の先達たちにも感じるが(あるいは佐々木昭一郎や森谷司郎などなぜかマッチョな人びとにもその傾向は強い)、同世代では今関あきよし監督などは言うまでもなく、意外にも是枝裕和監督にもけっこう強く感じることがある。そして、その少女的、少女そのものであろうとすることは、けっこうこれらの作家の魅力の重要な核にもなっているという気がする。森谷司郎や是枝裕和を少女的というと違和感があるかもしれないが、それは言葉の上だけのことで、実は多くの観客がじわっといいものとして見ている瞬間がその種の”萌え”に彩られていることも少なくない。『八甲田山』で最も魅力的な、高倉健の部隊と秋吉久美子の別れの場面など、『放課後』の栗田ひろみのテニスシーンと同級の少女”萌え”が充満してやまない。しかし、ここで森谷司郎の感覚を思い出しながら、いや実は森谷が師事した黒澤明にも(高林陽一『本陣殺人事件』で高沢順子の少女と同化してお花で遊ぶ田村高廣のように!)実は少女としての”萌え”が頻繁に噴出していたのでは、ということに思い当たって戦慄するのだが。

そしてそこに行き当たった時、そうかそうだったのかと思ったのは、『花とアリス殺人事件』における黒澤明『生きる』のとある名場面の引用である。岩井監督が特に黒澤明や『生きる』という作品が好きだという話は聞いたこともなかったので、はてこの引用は何だろうかと思ったけれども、そもそあの映画の余命いくばくもないオジサンの志村喬は実に乙女のようなキャラクターで、今回引用されるシーンは志村喬の少女じみた多感さが極点をなすところではなかったか。一方の志村喬を鼓舞する無心なエネルギーのかたまりみたいな少女・小田切みきは、あたかも少年のようであったが、さしずめ今回のアニメに登場する実写版の前日譚の花もアリスも、小田切みきのように少年っぽい。おそらく現役女子高生も感心する本作の少女のリアルさは、こうしてあくまで少女たちが少年であり、オジサンが少女であるというパラドックスをあるがままに描いているからだろう。実際、観客の女子高生たちは、花とアリスの少年性がきわまるに連れ、共感の笑いを発していた。

事ほどさように少女性というキーワードで黒澤明と岩井俊二が結ばれるというよもやの気づきを与えてくれた『花とアリス殺人事件』で描かれるのは、なんの変哲もなく全く「事件性」のない少年のような女子中学生の日々であり、その題名(『ベンジャミン・バトン』のような英語題も含めて)の洒落を裏切らない、ごく静かで淡々とした日常をルーペをのぞいているような感じがいい。ラーメン店で長居してからの寒い街での彷徨、駐車場の車の下にもぐって野宿しながらの会話、そして翌朝の大団円ともいえないほどの静かな感情の沸点・・・という流れは、本当に素晴らしい。このとりとめもなく、方向性もなく、絵に描いたような起伏もなく、しかし確実に静かな手ごたえがある時間は、青春というかけがえのないひとときの再現であるとともに、映画そのものの生地のような時間でもあった。

もしも少女というモチーフを好みながらまるで少女性がない筋肉質のエリック・ロメールが『花とアリス殺人事件』を撮ったらなら、『レネットとミラベル 四つの冒険』のように犀利で明晰な作品になるのだろうが、岩井俊二の場合、この生地にはほんのりと甘美でリリカルな芳香が漂う。このひょっとすると日本独特といえるかもしれない、表現における「オジサンの中のいけない少女性」の濃厚な発露というのは、引き続き考えてみたい根深いテーマである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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