「食べる文化財」お雑煮、地域で具材やだしはなぜ違う? 食文化研究家が解説
あけましておめでとうございます。もうお雑煮は食べましたか?
今年はよいことがありますようにと、願いを込めて囲む正月の膳、そこになくてはならないのが雑煮です。日本人にとって、餅は非日常の行事やお祝いに欠かせない「ハレの日の食べ物」の代表、その餅にとっても最高の晴れ舞台になるのが、正月を祝う雑煮なのです。
失われゆく儀礼食の最後の砦
クリスマスケーキやバレンタインチョコレートはますます人気ですが、お彼岸のぼた餅やおはぎ、端午の節句の粽(ちまき)や柏餅など、昔からの祝い餅を用意する人がどんどん減っています。
そんな現代でも、これだけは食べないと正月が来た気がしないと感じる人がまだまだ多く、強い伝承力を保っているのが雑煮。すたれていく伝統的儀礼食の最後の砦と呼べるかもしれません。
雑煮は「地域の味」と「我が家の味」が豊かに受け継がれている点でも貴重です。私は東京で生まれ育ちましたが、うちの雑煮は愛知風で、鰹と昆布だしのすまし汁で切り餅を煮て、具は小松菜だけと質素のきわみ。何代も続く生粋の江戸っ子である職場の先輩の雑煮は、同じくすまし汁に焼いた切り餅、具は三つ葉だけとやはり質素。大阪出身のもう1人は、餅は丸餅で、三が日にすまし汁仕立てと白味噌汁仕立てを交互に食べるそうです。
このように、雑煮は小さな集団でもバラエティーに富んでいます。同じ地域でも家による違いがあり、どれひとつとして同じ味はありません。もっぱら同じ地域で婚姻した昔とは違い、いまは離れた土地で育った同士が結びつくことが多く、それぞれの家の雑煮のよいところを組み合わせ、新しい雑煮が生み出されて定着することもあります。
雑煮には、その家や家族の思い出が色濃くまとわりついているもの。おせち料理は市販品を買うようになって全国の味が均質化しているのに対し、雑煮がいまも手作りされるのは、各自が強い思い入れを持っている表れでしょう。
神様と人が共食する「直会」がはじまり
民俗学から考えると、その年の福や五穀豊穣をもたらしてくれる年神様に餅と土地の産物をお供えし、それを下げてひとつ鍋で煮て、神様と一緒にいただく「直会(なおらい)」が雑煮の起源。直会とは、神様と人が共食することで、雑煮箸の両端が細くなっているのは、一方が人用、もう一方が神様用だからです。
雑煮は室町時代に京都で武家の料理として確立しました。やがて貴族に伝わると、雑煮という名前が下品とされて「烹雑(ほうぞう)」という別名でも呼ばれるようになりました。雑煮で正月を祝う習慣が広がっていったのは江戸時代から。江戸初期の1643(寛永20)年に出版された『料理物語』は、「雑煮は中味噌また清汁にても仕立つ。餅、豆腐、芋、大根、乾海鼠、串鮑、開鰹、青菜など入れてよし」と説明しています。
乾海鼠は干したナマコ、串鮑は串に刺して干したアワビのこと。1836(天保7)年の『東都歳事記』によると、徳川将軍家の雑煮は餅、大根、ごぼう、焼き豆腐、里芋、昆布、干しナマコ、干しアワビとあります。この2種が入るのはぜいたくな武家風雑煮だったのでしょう。なお、将軍家と御三家では三が日に麦飯、根深汁(ねぎ汁)、ウサギの羹(あつもの、吸い物のこと)を食べる習慣もあったそう。徳川氏の先祖が信州に逃れたさい、寄寓した家の主が雪のなか野ウサギを仕留め、吸い物で年始を祝ってくれた故事に由来するそうです。
丸餅、切り餅の違いは江戸時代から
全国の庶民の間に正月の雑煮が普及したのはいつからなのか? 庶民的な家庭料理を記録した書物は少なく、なかなか特定しづらい問題ではありますが、江戸後期の風俗をくわしく記した貴重な資料『守貞漫稿』には、以下のような解説があります。
「元旦、二日、三日 諸国ともに雑煮を食ふ」「大坂の雑煮は味噌仕立てなり。五文取りばかりの丸餅を焼き、これを加ふ。小芋、焼豆腐、大根、乾鮑、大略この五種を味噌汁にて製す」「江戸は切餅を焼き、小松菜を加へ、鰹節を用ひし醤油の煮だしなり」
ということは、この頃もう雑煮は全国的に食べられていて、東西の違いがはっきりと分かれていたわけです。
神様に供えた地元の産物を使う雑煮には、当然ながら地域色が強く出ます。もっとも分かりやすいのが、餅の形。日本列島の地図に北陸地方あたりから関ヶ原を通って和歌山県新宮を結ぶラインを引いてみると、それを分岐点に西側は丸餅、東は四角い切り餅の文化圏です。
搗いた餅を1個ずつ成形する丸餅にくらべて、一気にのして少しかたくなったら切り分けるほうが、ずっと時短で手間がかからない。「敵をのす」という意味もかけた切り餅は将軍の住む江戸で生まれ、東日本に普及しました。丸餅が公家文化、切り餅が武家文化を表するといわれるゆえんです。丸餅は煮る、切り餅は焼くことが多いものの、例外もたくさんあって一概ではありません。
地域色に富んだだしのとり方と汁の味つけ
次にだしの種類。鰹だし、鰹昆布だしが主流ですが、京都は昆布だけでだしをとるのが特徴。変わったところでは秋田県男鹿の焼きフグ、宮城県仙台の焼きハゼ、広島県福山の焼きアナゴ、福岡県や長崎県の干しアゴ(トビウオ)、石川県や佐賀県のスルメ、鹿児島県の焼きエビなど、特殊な海産物でだしをとる土地もあります。
焼きハゼは現在、貴重な高級食材となり、仙台の市場に出るのは正月前だけ。一晩水につけたのち、ゆっくりと弱火で煮ただしは、このうえなく香り高いそうです。だしをとったハゼは、椀からはみだす豪快な尾頭付きで雑煮の具になり、その上にはイクラが飾られます。全国でも珍しい雑煮だといえるでしょう。
また、鹿児島県の焼きエビは、薩摩藩主の島津家が食べていた「エビ雑煮」が庶民に広まったといわれます。炭火で乾燥させた焼きエビに干し椎茸と鰹節も加え、3種のうま味を重ねた濃いだしに、子孫繁栄を象徴する里芋、まめまめしく働けますようにと、豆モヤシが入るのがユニークです。
味つけは、京都を中心に大阪、奈良、兵庫、和歌山、香川、徳島、福井が味噌汁。福井県は赤味噌で、そのほかは甘い白味噌です。それ以外の地域、つまり東日本と山陰、山陽、四国西部と九州は、醤油、塩で味つけするすまし汁です。ざっくり分類すると、武家の影響力が強かった土地はすまし汁文化。武士が「めでたさに味噌をつける」と忌み嫌ったのがその理由です。
餅にきなこやクルミだれをつけて食べる土地も
たしかに京都の雑煮は、昆布だしにまろやかで甘い白味噌を溶いた汁のなかに丸餅と頭芋(里芋の親芋のこと)、美しい赤色の金時にんじんが寄り添って、見るからにはんなりと上品。公家文化が背後にあることを強烈に感じさせます。現在の宮中雑煮の具は、鶴に見立てた里芋、鏡を模した輪切りの大根、煮た干しアワビと干しナマコの小さな角切り。丸小餅は湯でやわらかくゆで、白味噌仕立てです。
同じ白味噌仕立てでも、香川県はあん入りの丸餅を使うことで有名。古くから讃岐は和三盆という砂糖の産地でしたが、ふだん庶民にとって高嶺の花なので、正月だけは自分たちも味わおうと餅に甘いあんを詰めました。
奈良のきなこ雑煮は、白味噌仕立ての雑煮を盛った椀の蓋にきなこを入れ、丸餅を汁から引き出し、きなこ餅にして食べるというもの。きなこの黄色には、豊作への願いが込められています。すまし汁仕立ての雑煮を、岩手県宮古市では同様に横に添えた甘いクルミだれをつけて食べ、熊本県では納豆をからめて食べます。
珍しいのが、島根県出雲地方の小豆雑煮。汁粉やぜんざいより甘さ控えめでさっぱりした小豆汁に丸餅の組み合わせで、だしで小豆を煮る家もあるそうです。
山の幸と海の幸を取り合わせた多彩な具
具は、雑煮のなかでもっとも地域性が出る部分です。たとえばサケが上ってくる地域では塩ザケとイクラ、ブリが取れる地域では塩ブリ、養殖が盛んな広島県は牡蠣といった具合。たんぱく源になる海の幸に、野菜や大豆食品などの山の幸、餅という田の幸を取り合わせて、栄養バランスがすぐれているのも雑煮の魅力だといえるでしょう。肉を入れる雑煮、野菜だけの雑煮もありますが、その場合もだしには海産物である鰹節、昆布を用いるので、山・海・田を網羅するのは同じ。その点でも日本らしい食文化です。
数ある全国の雑煮のなかから、その土地らしさがよく出ていて、おいしそうで個性もあるものを3種類選んでみると、ひとつめは青森県八戸市の「クジラ雑煮」。八戸は全国有数の捕鯨基地があったところです。分厚い脂肪がついている皮クジラを使うのが特徴で、大根、にんじん、ごぼうを入れたすまし汁仕立て。皮クジラの濃いうま味と甘味が広がり、希少性の高い唯一無二の味わいに違いありません。
ふたつめは、千葉県東部の「はば雑煮」。年のはじめに食べると一年中幅が利くといわれる縁起物です。コリコリとした独特の食感が持ち味の海藻、はばを揉みほぐし、焼いた切り餅とすまし汁のシンプル雑煮にトッピング。具は大根や里芋を入れることもあり、さらに青のりと削り節をかけることも。磯の香りがこれほど高い雑煮は、ほかにはないでしょう。
三つめが、福岡県の「博多雑煮」。だしは焼きアゴでとり、塩と醤油で味つけ。出世魚の塩ブリに鶏肉とかまぼこ、野菜は土地特産の「かつお菜」という青菜に大根、にんじん、里芋、干し椎茸と具だくさんで、これぞザ・雑煮の豪華なおいしさが楽しめそうです。
各地の多彩な雑煮を見ていると、我が家風で満足しているだけではもったいないと感じてきます。雑煮は「食べる文化財」。雑煮の多様性にふれることは、日本の食文化の奥深さを知ることになるでしょう。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】