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今は亡き、吉野朔実の漫画を映画化。出自とは?贖罪とは?「記憶の技法」に池田千尋監督が込めた想い

水上賢治映画ライター
「記憶の技法」の池田千尋監督 筆者撮影

 「少年は荒野をめざす」「ジュリエットの卵」などで知られ、2016年に急逝した吉野朔実の同名漫画の映画化となる「記憶の技法」は、できれば避けたいが向き合っておきたい、そんなテーマがいくつも内包されている。

 本格的な心理サスペンスとして成立させながら、犯罪被害者の遺族、犯罪加害者の家族、生みの親、育ての親、養子縁組など、誰もが直面するわけではないが、誰もが直面するかもしれない、個人としても社会としてももっと関心を寄せたいテーマをいくつも配した

2016年に急逝した吉野朔実の漫画「記憶の技法」との出合い

 手掛けたのは「東南角部屋二階の女」や「スタートアップ・ガールズ」の池田千尋監督。原作との出合いを彼女はこう語る。

「初めて手にしたのは20代半ばぐらいだったと記憶しています。自分が関心を寄せていることが含まれていて、初めてほかの方が作り上げた物語を映画にしてみたいと思いました。

 私の中で、とりわけ衝撃を受けたのは、まだ高校生の若い主人公・華蓮(かれん)の心の在り様。彼女は自分自身と向き合い、混乱しながらも現実と対峙し、さまざまな困難を乗り越えた先で最後は他者を抱きしめるまでになる。その心の大きな成長に深い感銘を受けました

 人間ってなにか自分に不都合なことや嫌な記憶にはできれば触れたくない。特に自分のパーソナルでのネガティブなところは直視したくないし、やり過ごしたい。

 となると内へ内へと閉じていって、自我との対話に陥る。そんなことが多いと思うんです。

 対して、華蓮は内向きにならない。外へと向かい外部を知ることで先へ進む。自分自身の問題を直視することで人間として自立していく過程の描き方が鮮烈でした。

 あと、当時、私は記憶についてもよく考えていました。実際、大学時代、記憶についての短編を作っています。

 記憶について考えることは、自分の存在について考えることとイコールだと思うんです。

 記憶ときちんと向き合うと、当時は見落としていたものが見えて自分自身を塗り替えるチャンスを得たりもする。

 そのことに言及しているのも、映画化したいと思った要因のひとつです」

「記憶の技法」より
「記憶の技法」より

脚本は白石和彌監督「凶悪」、河瀬直美監督の「朝が来る」などの高橋泉

 脚本は白石和彌監督の「凶悪」や、河瀬(正式は右上が「刀」の「瀬」)直美監督の「朝が来る」などを手掛けている高橋泉(※正式はハシゴの「高」、以後同じ)が担当。彼とは「スタートアップ・ガールズ」や数多くのテレビドラマでタッグを組んでいる。

「高橋さんとは、私が『東南角部屋二階の女』で監督デビューする少し前に出会って以来のお付き合いで。私が初めてご一緒したプロの脚本家であり、無条件に信頼している脚本家でもあります。

 なぜ、無条件に信頼しているかというと、社会や世界、人間を見つめる眼差しの在り方が、とても心地良いからです。物事や人物の見方が共有できると私は思っていて。非常にフラットなんですね、色眼鏡で見ない。暖かくも鋭い視点が作品を支えてくれるんです。

 私は脚本家としても活動をしていますが、基本的に自分が監督を務める場合は、ほかの方に脚本はお願いすることにしています。

 ひとりで突き詰めていく中で見出すことももちろんあるんですけど、ほかの方といっしょに掘り下げていくほうが、新たな可能性を発見したり、考えもつかなかったインスピレーションを得ることがあったりと、より作品を広げることができる。ひとりの視点よりも複数の視点で取り組んだ方が、作品が豊かになる。

 ですので、自分が監督をするときは、脚本は別の方にお願いすることにしています」

「記憶の技法」より
「記憶の技法」より

 作品は、東京に住むごく普通の女子高校生、鹿角(かづの)華蓮が、韓国への修学旅行でパスポート申請用の戸籍抄本を手にした際、自分が特別養子縁組による養子であることを知ることに。自ら戸籍謄本を取得してみると、「由(ゆかり)」という姉がいたこと、今の両親に引き取られたことが判明する。

 ほんとうの親はどこにいるのか、なぜ自分は鹿角家に引き取られたのか?自らのアイデンティティを探すべく彼女は出生地の福岡県福岡市へ。現地で彼女は、幼いころから悩まされてきたしばしば記憶が飛ぶことの要因である、フラッシュバックして脳裏に蘇る記憶の断片がある事実に基づいていることに直面する。それは、なかなか受け入れることの難しい厳しい現実だった……。

 こうして物語は、華蓮のルーツ探しの旅の過程が、ひとつ事実が判明すると新たな謎が立ち上がり、再び事実が明らかになるミステリーの展開を見せる。一方で、思いもしない自分の出自にまつわる事実に直面するたびに、華蓮がひとつ大人の階段を上る成長物語としても成立。そして、華蓮の家族をめぐって起きてしまった不幸な殺人事件を背景に生じた特別養子縁組、被害者遺族、加害者家族、それぞれの立場にたった当事者の声が作品からは伝わってくる。

 その中で、できれば目を背けたくなる事実に直面しながらも、その現実をきちんと受け入れ前を向く華蓮の凛とした姿勢がとりわけ印象に残る。

「記憶は自分でどこか捏造してしまうことがある。そして多くは自分の都合のいいように解釈してインプットしてしまう。

 そうした曖昧でいいように解釈していた記憶を、確固たる事実を前にしたとき、軌道修正して自分がきちんと受け入れられるかはけっこう重要ではないかと。そこで事実から目を背けて、見ないことにするとそのことはなにか一生ついて回るような気がする。

 一方で、ことによっては苦しく辛く、痛みを伴うけれども、きちんと向き合って受け入れたとき、自分の枠が広がる気がする。すなわち、それは人としての成熟であり成長だと思う。

 華蓮はそのことを証明しているのではないかと私は思っています」

柄本時生が演じる金魚屋の男の存在

 また、劇中でキーパーソンとなるのが、柄本時生が演じている金魚屋の男だ。華蓮の実の家族の命を奪った男の息子である彼は、実は華蓮の救世主でもある。殺人者の息子という十字架を背負った彼は、一度は離れたものの忌まわしい記憶の残る故郷へ戻り、金魚屋として自らに罪を科すように、ひとつの償いを考えながら、そこに居続けている。

原作を読んで、最も心を奪われたのが金魚屋の男でした。

 原作だと少しつかみどころない人物にも映るのですが、(柄本)時生くんが演じることで肉体として立ち上がったときに、一番新しく生まれ変わった人物だとも思っています。

 今振り返ると、原作を読んだ当時、私の気持ちに一番近かったのが彼かもしれません。金魚屋の男は、犯罪加害者の息子というレッテルを貼り付けたままぐっとこらえてそこに立っている

 私は殺人事件に興味があって、いろいろな資料や本、検証データなどに目を通すことがあるんですけど、犯罪者当人についてはある程度のことが書かれている。

 でも、残された人、犯罪加害者の肉親や犯罪被害者の肉親についてはほとんど触れられていない。特に犯罪加害者の身内の声はほとんど語られていない。

 それで考えるんですよね。『自分のものではない罪を、自分の罪と同義で抱えざるをえなくなって、その上で生きるというのはどういうことなんだろうか?』と。誰のことも責められないし、すべては自分が引き受けるしかない。

 金魚屋の男は幼少期に、その現実を突きつけられ、その現実と生きざるをえなかった。で、一度は故郷から去ったわけですけど、再び戻ってきて、消しようのない現実と生きることを選んだわけです。忌まわしい土地に身を置いて、いつくるかもわからない華蓮、イコール自身が罰されることを待ち続けた。

 凄みのある生き方ですよね。彼のように簡単にはなれないのではないでしょうか」

「記憶の技法」より
「記憶の技法」より

きちんと向き合い改善する努力や自ら修復しようとしないとなにも変わらない

 この金魚屋の男の心の在り様とそう生きることを決めた覚悟は、ある意味、人としてこうありたいと思える。

「忌まわしい過去と自分自身に徹底的に向き合う。過去に蓋をして逃げていては前に進めないことに彼は気づいている。このことが意味することは大きいですよね。

 金魚屋の男と比べると些細なことですが、私は中学生のころ、本気で自身が家にいないほうがいいんじゃないかと思っていました。家庭に不協和音が響いていて、早く家を出たかった。

 それで大学に進学するとき、家を出ることになって、ようやくこの苦悩から解放されると思ったら、解放されなかったんですよね。

 距離が離れただけで、その問題から解放されるわけではなかった。

 つまり、人との関係性やたとえば一度刻まれてしまった記憶はそう簡単に消すことはできない。どこかできちんと向き合って改善する努力や自ら修復しようとしないとなにも変わらない

 今は家族といい距離感で付き合えているので、まったく問題ないんですけど、当時は、やはり逃げてしまった。でも、逃げないで向き合うことの大切さ。そのことを金魚屋の男は示していて、それもまたこの原作に惹かれた要因だったと思います」

殺人の場面をリアルに徹した理由

 華蓮にとっても金魚屋の男にとっても忌まわしい記憶になる殺人の場面はリアルに徹し、生々しい脳裏に焼き付くようなシーンになっている。

「たとえば物語をドラマティックにしたりするような、殺人をアイテムとしては扱いたくなかった。これは映画を作り始めたころから思っていることです。

 次に華蓮が今までおぼろげだったほんとうの記憶にぶちあたって頭の中に蘇るシーンでもあったので、リアリティの強度を高めて目を伏せたくなるぐらい鮮明にしなければとも思いました。

 これらを合わせた結果、あのようなリアルな描写になりました。

 具体的な作品を出すと、田中登監督の『人妻集団暴行致死事件』やクシシュトフ・キェシロフスキ監督の『殺人に関する短いフィルム』。これらは20歳前後に初めて見て、以降度々見直します。今回もこれらの作品の記憶が私に撮らせたカットが多くあると思っています」

「記憶の技法」より
「記憶の技法」より

女性の深い部分を描いた4作品が続々公開に

 実は、本作以外に2020年、池田監督の関わった映画が3本公開されている。1本は監督作品の「スタートアップ・ガールズ」。あとの2本は、三島有紀子監督の「Red」と青山真治監督の「空に住む」でこちらは脚本を手掛けている。

 共通するのは、いずれも女性の深い部分を描いていること。個人的なことを言うと、池田監督が「東南角部屋二階の女」でデビューした折、こうした女性の業を描くような監督になることは想像できなかった。失礼ながらもう少しライトでポップな語り口の、ヒューマン・ドラマの描き手になるのではと想像していた。

「ほんとうに『東南角部屋二階の女』は大きなチャンスをいただいた作品で、今も大切な作品なんですけど、当時の私の作家性というか個性、追求しようとしていることに照らし合わせると、異色なんです。

 実は、商業デビューするまでの芸大大学院や映画美学校では、女性が主人公で、女性が生きる上での生き辛さや葛藤ばかりを描いて、突き詰めて考えていたところがあります。

 だから、『東南角部屋二階の女』は当時の私としては新境地に挑んだようなところがある。でも、世間ではデビュー作ですから、そういう作風の監督と受けとめられた。だから、しばらく私に抱かれているイメージとテーマが少しずれていて思い悩んだところは当時ありました

 その中で、近年、原点回帰ではないが、女性の心の奥底を描くようなところに戻ってきている感触が自身にもあるそうだ。

「デビューした後、すぐにリーマンショックがあって、日本映画全体で作られる作品もグッと減って、思うようにならない厳しい時代が何年か続きました。

 ただ、その中でも、私が書いた脚本や作った作品を見てくださったプロデューサーや関係者がいて、キャリアを積み重ねることができた。

 こうした歳を重ねることで、自分がほんとうに描きたいこと、ピュアに描きたいものを考えたときに、原点に立ち返ったといいますか。自然と自分の視野に入ってきたのが女性や人間の感情の深い部分を描くことだったんですよね。また、幸運にもそういったところにアプローチするような作品に関わる仕事もいただくようになった。

 ただ、圧倒的に違うなと思うのは、10代から20代前半に作っていたものは、思春期や20歳前後の女性の葛藤のようなもの、まさに当時の自身の感覚でもありますが、そこを作品にしていた。しかも、かなりひとりよがりの発想のもとで作っていた。

 でも、今はそれ相応の歳を重ねて、女性として、人として向き合う問題や課題みたいなものが変化してきて。もっと幅広い世代、様々なタイプや性格の女性のひとつではない心の在り様に目がいくようになった。

 今年携わった作品で言えば、今の自分の気持ちや感情にフィットする形で『空に住む』と『Red』は取り組めた気がします。

 『スタートアップ・ガールズ』に関しては、少し前の自分と、新しい私が共存しているような感触があって。昔は、演出の仕方なり、人間のキャラクターの描き方なりが、これしかないと決めつけていた。視野が非常に狭かった(苦笑)。

 でも、『スタートアップ・ガールズ』は多角的に主人公の2人の女性をとらえて、客観的な視点から描けた感触があります。

 『記憶の技法』については、かつての自分の場所にどこか戻ったというか。自分ってなんだろうとか、生きる意味とはなにかとか、自分の居場所はどこか、なにが正しいか、なにが間違いなのか、ひとりの女性の自分自身の世界での切実な気持ちを心の底を、覗きながら描いているところがある。原点に戻ったといっていいかもしれない。

 ただ、テーマとしては原点に戻ったけど、確実に変化しているかなと。『記憶の技法』は、親世代、華蓮のお父さんやお母さんの想いにもきちんと目配せして描くことができた。おそらく昔の私だったら華蓮に集中して彼女しか描かなかった気がします。

 もともと映画も、たとえば日活ロマンポルノの神代(辰巳)監督や田中登監督の作品のような、女たちが自己をさらけだして、人生を切り拓いていくような、ああいう女性の強さや逞しさを描いたものが好きなんです。

 そういったもともと自分の中にあった、女性の物語を描く地点に戻っている気がします」

「記憶の技法」より
「記憶の技法」より

今の女性が女性という性を抱えながら生きるというのはどういうことなのか

 その上で、これからのヴィジョンをこう語る。

「今自身の創作の原点に立ち戻って、女性性について改めて考え始めたところがあります。

 デビュー当時、まあ今もそうですが、私はよく女性監督と呼ばれて、インタビューでも『女性監督として描きたいことはありますか?』とよく聞かれたんですね。

 そのとき、だいたい『女性とか男性とかあまり意識したことはないです』と答えていました。男と女は違うし、性差はどうにも変えようがないこと。その中で、私は自分がどう生きていくかを考えていました。

 たぶん、男性だって同じような苦悩を抱えて生きていると思っていました。男性が得することもあれば女性が得するときもある。それぐらいの考えでいたんですね。

 子ども時代に男女差をみせつけられてきた世代なので、そんなことは当たり前にあらゆる場面にあることで、そういう中で、自分は映画監督として生きていければいい、どんな形でもいいから映画を作り続けられればいいと考えていました。

 ただ、ここにきまして、ある程度階段を上ってきて、周りを見渡してみると、映画業界はもとよりほかでも女性は上になかなかいけない事実に直面することが増えてくる。このままでいいのか疑問を感じずにはいられなくなるわけです。

 最近、20代前後の女性たちと話をする機会が多くて。彼女たちと直に話してみると、私よりも圧倒的に女性であることにいら立ちを抱え、社会に対して憤りを感じている。私と彼女たちには20年前後の年齢の違いがあるんですけど、今の女性たちは男と女に差はない、女性も社会に出て第一線で活躍できると、表面上でいわれてきた世代なんです。現実はまったく違うのに。

 そういわれて実際に社会に出てきたとき、愕然とするわけです。『男女平等なんてまったくの嘘で違うじゃないか』と。だから、よけいに怒りを覚えるし、矛盾を感じてしまう。

 そういう経験をして、今の女性が女性という性を抱えながら生きるというのはどういうことなんだろうと、そのことをすごく考えています。そして、描いてみたいなと思っています。

 私の世代でいうと、女性は女性らしくとか、結婚はするものだとか。結婚をしたら子どもを生むべきで、子をもつ親になったら今度はお母さんをしないといけない、仕事をしてその上でいい妻でもいないといけない、そういう終わりのない呪いにとらわれてきたところがある。

 でも、今の若い世代はそういう形式どころか、女であることの根源的なところで怒りや生き辛さを抱え始めてきている

 女として生きているからこそ見えてくることがあると思うので、それを形にできればと思っています」

「記憶の技法」

1月8日(金)より愛知センチュリーシネマほか全国順次公開中

場面写真はすべて(C)吉野朔実・小学館 2020「記憶の技法」製作委員会

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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