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落合博満監督の大失敗2――リーグ連覇の陰で潰れた最高の外国人選手【落合博満の視点vol.18】

横尾弘一野球ジャーナリスト
2011年にリーグ連覇を果たした中日で、ひとりの外国人選手が苦しんでいた。

「今シーズン来るヤツは凄いぞ。何しろブランコより飛ばすからな」

 2011年の春季キャンプを前に、落合博満は満面の笑顔でそう言った。来るヤツの名はジョエル・グスマン。196cm・113kgとスケールの大きな右打ちのスラッガーで、外国人を担当していた森 繁和ヘッドコーチが4年をかけて契約に漕ぎ着けた。ドミニカ共和国出身で、17歳の時にロサンゼルス・ドジャースと契約。225万ドルという契約金は当時の最高額で、21歳のシーズンには早くもメジャー・デビューを果たしている。守りでは内外野をそつなくこなし、打てばトニ・ブランコを上回る飛距離を出す。球団史上初のリーグ連覇に強くこだわっていた落合が、どうしても欲しかった選手だった。

 春季キャンプ、オープン戦を順調にこなし、東日本大震災によって4月12日まで延期された開幕戦、五番ライトでスタメン出場したグスマンは、3点を追う4回表に和田一浩の右犠飛で1点を返すと、レフトスタンドへ豪快な逆転3ラン本塁打を放つ。確かに凄い新戦力だと感じたが、そのまま勢いにも乗って打ちまくることはなく、凡打の山を築き始める。横浜との開幕3連戦こそ1安打ずつを放ったが、続く阪神との3連戦では12打数1安打で4三振。さらに、ヤクルト戦で4打席3三振に終わると打順を七番に下げるも、再び4打席で3三振と苦しむ。

 選球眼の悪さや内角球に対する対応力の低さなど、メジャーに定着できなかった欠点がメディアで報じられると、状況はどんどん悪化する一方。スタメンを外れ、一軍登録を抹消され、とうとう戦力になることさえできなかった。中日は悲願のリーグ連覇を達成し、それを置き土産に落合は8年間の監督生活から退いたが、グスマンはシーズンを終えるとひっそり帰国した。

あらためて感じた技術事を伝える難しさ

「タイロン(・ウッズ)ってことになるんだろうが、本当はグスマンのはずだったんだよな」

 監督時代の最高の外国人選手は誰か、という問いに、落合はそう答えた。意外だったのは、「私が余計なことを言ってしまい、グスマンを潰してしまったから」と言ったことだ。グスマンの選球眼が悪く、内角球に弱かったのも事実だ。しかし、それは日本の野球に順応することで克服できる程度のものだったという。落合が気になっていたのは、グスマンのバットの握り方だった。

「その握り方だと、インパクトの際に十分な力をかけられなくなるので、強く打ち返せるような握り方を教えた」

 素直に握り方を変えたグスマンは、ため息の出るような飛距離を連発していた。ところが、ペナントレースが開幕すると、少しずつスイングがおかしくなっていく。練習と同じような打撃をどうすればできるのか。映像や写真で分析した落合は、思わず「あっ」と声を上げる。

「実は、構えた時の握り方はおかしかったけれど、スイングの途中で正しい握りに変えていたんだ。それを、私のアドバイスで正しい握り方にしたら、今度はインパクトの時におかしな握りになってしまっていた」

 そう、結果的には落合が間違ったアドバイスを送り、それを忠実に聞き入れたことでグスマンのスイングはおかしくなっていたのだ。

「ドミニカ共和国には、貧困な経験もあってハングリーなヤツが多いし、一年契約で勝負だと腹を括っているから、悔いがないように自分のやり方を通す。でも、グスマンは裕福な家庭に育っていて、野球をエンジョイしている本当にいいヤツ。だから、私の言うことも素直に聞き入れてしまった。最高の外国人になるはずの選手を、私の余計なひと言で潰してしまい、本当に申し訳なかった」

 どんな世代の選手を相手にしても、打撃技術を伝える際には細心の注意を払いながらアドバイスしている落合だからこそ、グスマンとの思い出を語る時には無念そうな表情を見せるのだ。

(写真=Paul Henry)

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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