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【「麒麟がくる」コラム】明智光秀は茶の湯に執心だった!?光秀の茶道歴を探る!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
茶会の様子。戦国大名にとって、茶は嗜みとして重要な意味を持った。(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

■武将の嗜みだった茶の湯

 大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀は連歌だけでなく、茶の湯にも執心だった。

 天正6年(1578)、光秀は織田信長から茶の湯の開催の許可を得、元旦に八角釜(胴が八角形の釜)を与えられた。これは、前年に織田軍が大和信貴山城(奈良県平群町)の松永久秀を滅亡に追い込んだ際、光秀が大いに軍功を挙げたことに対する恩賞だった。信長が最初に茶の湯を許したのは嫡男の信忠で、その次が光秀だった。秀吉はそのあとだったので、光秀の重用ぶりがうかがえる。

■初めての茶会

 同年1月11日、光秀は初めての茶会を催した(『宗及茶湯日記他会記』)。招かれたのは、堺の豪商・津田宗及と銭屋宗訥(そうとつ)、道是(どうぜ)、の三人である。床の間に掛けられたのは、牧谿(もっけい)筆の「椿の図」である。牧谿は中国の宋末・元初の画僧で、日本水墨画に多大な影響を与えた人物である。信長から与えられた六角釜は、鎖で天井から吊るされた。座敷飾りは、至って豪勢だった。

 亭主役を務めたのは宗及で、青木肩衝(青木民部法印浄憲が所持していた)、霜夜天目といった名器が用いられた。宗及は光秀の代わりに濃茶を点てた。その後、薄茶席に移り、堺の豪商の若狭屋宗啓が点前を担当した。食事も豪華で、本膳は綴折敷、鮒膾(ふななます)、そして信長から拝領した生鶴が汁として振舞われた。その後、土筆(つくし)と独活(うど)の和え物、鶉(うづら)の焼鳥が供され、菓子は薄皮饅頭と煎榧(いりかや)が準備された。さらに冷やし素麺など次々と食事が並んだ。

 会を終えると、光秀は宗及に白綾の小袖と茶の織色の小袖を贈った。それは、宗及が年頭の挨拶のため、安土城(滋賀県近江八幡市)の信長のもとを訪問するために用意したものだった。加えて、宗及に御座船を用意し、安土行きの便宜を図った。光秀の細やかな心遣いがうかがえる。

 同時に信長は光秀の初めての茶会に際して、さまざまな配慮を行った様子がうかがえる。茶会の開催を許された光秀は、亭主を十分に務めることができず、宗及がその役割を代行した。光秀が宗及に贈り物をしたのは、そのお礼の意味を込めてであろう。

■続く茶の湯の会

 光秀は、その後も茶会を催した。天正7年(1579)、光秀は八上城(兵庫県篠山市)主の波多野秀治を討つべく、丹波に出陣することになった。その話を聞いた宗及は、送別のために光秀の元を訪れると、光秀は同年1月7日に茶会を催した(『宗及茶湯日記他会記』)。光秀は翌日も草部屋道説(堺の茶人)を招き、茶会を催した。床の間には、歌人である藤原定家の「小倉色紙」(淡路島かよふ千鳥)が掛けられたと伝わる。

 天正8年1月9日、光秀は茶会を催すべく、京都の屋敷に信長の御成の間を設け、宿泊所とした。光秀にとっては、晴れがましい舞台だったに違いない。信長から与えられた嘉例の生鶴で吸い物を作り、膳に花を添えた。

 同年12月20日にも、光秀は宗及と筒井順慶を招いて茶会を催した。天正4年5月、順慶が信長から大和一国の支配を任された際、使者として伝えたのが光秀だった。その後、順慶は光秀の与力になったので、2人の関係は良好だったと考えられる。光秀が茶会に順慶を招いたというのも、当然その証左になるだろう。茶会では、臨済宗の高僧・大燈国師(宗峰妙超)の墨蹟が掛けられた。

■豪商らを招いての茶会

 天正9年1月10日には、宗及が初めて堺の豪商で茶人の山上宗二を伴い、光秀の茶会に出席した。同年4月9日、光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を出発し、宗及、山上宗二や連歌師の里村紹巴とともに丹後宮津(京都府宮津市)に向かった。女婿の細川忠興に面会するためだった。酒宴では、忠興から光秀に名刀の地蔵行平(豊後国・紀新大夫行平の作)が贈られた。むろん、茶の湯の会も催されたのである。

 天正10年1月7日は、宗及と宗二を招いて茶会が催された。床の間には、信長自筆の書が掛けられたという。これは異例のことで、一般的に茶会では、歌人の和歌や高僧の書が床の間に掛けられる。信長直筆の書が掛けられたということは、信長と光秀の関係が良好だったことの証左になろう。

 同年1月25日にも宗及と博多の豪商・島井宗室を招いて茶会が催された。このときは信長から拝領した平釜を炉に掛け、藤原定家が用いたという文台(書籍や短冊などを載せるために使われた机状の台)二硯を飾った。

■数寄者だった光秀

 光秀の茶会の記録はさほど多いとは言えないが、茶器の名物を所持するなど、相当な数寄者(風流を好む人。茶道をたしなむ人)だったことがわかる。とはいえ、これも織田家中で生き残るためでもあり、茶を通じて多くの武人と交わる必要があったからにほかならない。

 少なくとも、信長の好みに合わせる必要があった。信長直筆の書状を床の間に掛け、拝領した茶器などを茶会で用いているのは、天正10年1月の時点における、2人の良好な関係性を考えるうえで重要である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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