運命共同体の永遠の絆に涙がとまらない。『ショコラ 〜君がいて、僕がいる〜』
日本でも大ヒットした『最強のふたり』ですが、本国フランスでの大成功は私たち日本人が考える以上に“事件”だったに違いありません。あの作品はオマール・シーに黒人として初めてのセザール賞主演男優賞をもたらしたのですから。
そのオマール・シーが、フランスで初めて成功を掴んだ黒人芸人を演じるのが『ショコラ 〜君がいて、僕がいる〜』。20世紀初頭にフランスで活躍した実在の道化師コンビ「フティット&ショコラ」の物語です。相方のフティットを演じるのは、チャールズ・チャップリンの孫であるジェームス・ティエレ。「フティット&ショコラ」は、リュミエール兄弟によってその芸がフィルムに収められ、ロートレックにも描かれるほどの時代のスターになりながらも、ロシュディ・ゼム監督も脚本を読んで初めてその存在を知ったというほど、フランスでも忘れ去られた存在だったそう。
前代未聞のコンビの栄光と苦悩
描かれるのはコンビの軌跡。再ブレイクを狙う道化師フティットは、地方を巡業中のサーカスで見つけた黒人カナンガを相方にし、白人と黒人という前代未聞のコンビを結成。アクション芸が大受けし、「フティット&ショコラ」と名を改めた2人は評判を呼び、やがてパリの名門サーカスからスカウトされると、やがてお菓子や石鹸のパッケージにもなるほどのスターになるのですが…。人種差別が当たり前に存在した社会で苦悩を増すショコラは、酒やギャンブルやアヘンに溺れていきます。
ショコラがカナンガを名乗っていた頃のネタはもちろん、「フティット&ショコラ」の演目も、現代の放送禁止用語連発だし、そもそも彼らが演じるのは差別意識に基づく笑い。「フティット&ショコラ」の初舞台の観客たちが、白人と黒人という前代未聞のコンビに衝撃を受けて固まってしまうのとは逆の意味で、彼らの笑いは現代の私たちにはショッキングでもあります。
けれども、その笑いに困惑させられつつも、フティットとショコラが観客を爆笑させる初舞台は、彼らが笑いのツボを見つけていく過程そのもので 私たちの心を掴まずにいないのです。オマール・シーとジェームス・ティエレの身体表現の豊かさときたら! シルク・ヌーヴォー(新しいサーカス)の旗手である両親のもと、サーカスの世界で育ったティエレが軽やかな道化師ぶりを楽しませてくれるのは当然とはいえ、その彼と息のあったコンビネーションを見せるシーの軽妙な道化ぶりの見事なこと。フティットとショコラ同様に、ティエレとシーの間に生まれたコンビとしての一心同体感がスクリーンから伝わってくることにもワクワクせずにいられません。
彼は“最初の一人”だった
しかし、不法移民であるショコラは警察に怯え、スターになってもなお肌の色の違いによる差別に肉体的にも精神的にも苦しめられます。そんな時代にスターになったショコラ自身にも、彼の才能に気づき、愛した相方フティットへの敬意もさらに強くなるのですが、この物語をより印象深いものにしているのが ショコラの内側にあるもうひとつの大きな苦悩です。
それは、芸術家として認められたいという渇望。笑いに人生をかけ、演目を書きおろすフティットに対して、自分はただ猿のように尻を蹴られる存在として 世間から見られることへのショコラの不満や悲しみは、どんどん大きくなっていくのです。
そんなショコラに ある男が投げかける言葉。
「真の芸術とは風穴をあけることだ」
「最初の一人になれ。それでこそ芸術家だ」。
ショコラの心を揺さぶり、新たな高みを目指させる この言葉が 私たちの胸にも深く突き刺さります。なぜなら、ショコラは既に社会に風穴を開けた存在だった。白人と黒人というコンビも前代未聞なら、道化師が石鹸やお菓子のパッケージになるのも前代未聞だったのですから(病院でのセラピー道化師も務める存在でもあったことも描かれています!)。それなのに、差別が当たり前に存在した時代が、彼にそれを気づかせなかったという悲劇。差別が当たり前に存在する社会では、彼はより大きな風穴を開けることができなかったという悲劇。
けれども、そんなせつない物語が浮かび上がらせるのは、何があっても、同じ時間を過ごした運命共同体の絆は永遠だということ。その“真実”が、ラストに溢れる涙に温かさを与えてくれるのです。エンドロールの前に映し出されるリュミエール兄弟が撮影した「フティット&ショコラ」の芸を、100年以上の歳月を超えて目にすることができる幸せともあいまって。
『ショコラ 〜君がいて、僕がいる〜』は公開中
(C)2016 Gaumont / Mandarin Cinema / Korokoro / M6 Films