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トップが判断を間違った時にどうするか 大川小の悲劇を記録した映画から考えた

石川慶子危機管理/広報コンサルタント
(写真:アフロ)

 2011年3月11日15時37分。宮城県石巻市立大川小学校の時計が止まった時間。この時74名の児童と教職員10名が津波に襲われました。2018年4月26日、震災前の学校の防災体制に不備があったとして組織過失を認めた二審の判決が出て、最高裁で確定したのが2019年10月。この23名の遺族が闘ってきた映像を記録したドキュメンタリー映画「生きる」が現在公開されています。学校はどこで判断を間違ったのでしょうか。組織的過失はどこにあったのか、だけではなく、トップが判断を誤った時に私たちはどう行動したらいいのか、考えます。

51分間に何があったのか

 大川小学校は、宮城県を流れ下る一級河川「北上川」の河口から約3.7キロ上流に位置していました。2011年3月11日14時46分に東日本大震災が発生。学校に津波が襲ってきたのは51分後の15時37分頃。北上川を遡上して堤防を越流した津波と追波湾から陸上を遡上した津波が加わり、2方向から襲われ、校庭に避難していた78名の児童生徒のうち74名(4名はいまだ行方不明)と教員11名のうち10名が犠牲となりました。校庭の裏山に避難せず、被災リスクの高い三角地帯に移動を開始した直後に津波に襲われました。助かったのは、三角地帯の移動列に加わらなかった児童2名、津波に襲われながらも流れてきた物につかまった児童2名、裏山にのぼった教務主任1名の5名のみ。スクールバスを使わなかったことや避難の遅れ、避難場所判断ミス、平時に避難訓練をしていなかったことから組織的過失として司法で裁かれました。

 当日、津波が来るまでの51分間に何があったのでしょうか。

 14時52分、15時10分の2回、防災無線スピーカーでは「只今、大津波警報が発令。海岸付近や河川の堤防には絶対に近づかないでください」と放送され、スクールバスも待機していました。証言記録から明らかになっているのは、校庭に引き取りに来た保護者が教員に津波情報を伝え「裏山へ」と進言したり、児童らも普段から登っていた「山さ行くべえ!」と訴えたり、教務主任が防災無線の内容を報告し「どうしますか、山に逃げますか」と質問したりしましたが、教頭が「危ないからダメなんだ」(当日、校長は不在)と返答。結果として、山よりも被災リスクの高い新北上大橋のたもと「三角地帯」に移動を開始した直後に津波に襲われてしまいました。

混乱状況でのバイアスか

 東日本大震災では、死者1万5,899人、行方不明者2,526人にも上り多くの被害がでました。しかし、7割の児童が犠牲になる惨事となったのは大川小学校のみ。映画「生きる」は、この惨事を引き起こした事実・理由を知りたい、学校や行政の対応に誠意がないと感じた遺族が真実を知りたい、との思いから震災直後から、10年にわたって撮り続けた映像をベースに編集されたドキュメンタリーです。

 私が着目した映像は2つあります。裏山避難を主張して教員で唯一助かった教務主任が保護者会で当日の様子を説明するシーン。「記憶が途切れている部分があるのですが、直接遺族の皆さんに説明します」と始まり、「最初の防災無線を伝え、教頭にどうしますか、危険でも山に逃げますか、と進言したが、教頭はこの揺れの中ではだめだ、と返答。二度目の防災無線の際にも声をかけたけれど回答はなかった。自分は校舎の中を確認して戻ったら、移動を始めていたから追いかけた」と説明*1。遺族の罵声に突っ伏しつつ、逃げずに直接説明していた事実があったことは映像で初めて知りました。子供の証言と異なっている部分があり、遺族は不信感をぬぐうことはできなかったようです。遺族からすれば当然「もっと強く説得してくれればよかったのに」。

 教頭は山は危険というバイアス(先入観)がどこから入ったのでしょうか。6メートルの高台「三角地帯」の方がなぜ安全と判断してしまったのでしょうか。命がけで叫んで、山に行けー、と言った教員は誰もいなかったのでしょうか。私が2016年に訪れた際、現地の墓碑には児童と児童の祖父母らしき名前が刻まれていました。当時校庭にはお年寄りと子供たちがいたことがわかります。お年寄りが山に登れないから、皆で移動できる場所にしたのでしょうか。「わしらは登れんが、子供達だけ行け」「子供達だけスクールバスで行け」といった声はあったのではないでしょうか。トリアージ的な発想で命の優先順位を判断できる大人の声がかき消されたのでしょうか。映画の中でもこの答えはありませんでしたが、さまざまなことを想像して教訓にしていく必要はあります。

トップが判断を間違ったら

 もう一つは、当日不在だった校長が保護者会で、避難訓練をしていなかったのに、市教育委員会には避難訓練は実施したと嘘の報告をしたことを平然と認めるシーン。遺族が校庭から裏山の津波到達点までを登ったところ1分程度。2回目の防災無線の後でも十分間に合います。せめて三角地帯に移動しなければ、津波が見えた時点で裏山に駆け上がり助かった児童は増えていた可能性もあります。

 直接的な原因は、三角地帯に移動してしまったことですが、背景には、避難訓練をしていなかったために裏山を避難場所として認識できなかったことがあるといえます。本質的には、災害危機管理マニュアルがあり、裏山へ避難する訓練ができていれば起こらなかった悲劇です。何もしていなかった、嘘の報告をしていた校長への遺族の怒りは計り知れません。と同時に考えさせられたのはトップや上司が判断を間違った場合に部下はどうすべきなのか。上司に従わない判断を下したり、子供であっても大人が間違っていると思えば自分の命を守る行動を選択したりする権利があるのではないでしょうか。三角地帯に行く列に加わらなかった3人(他の2名は津波の中から)が助かっているのは*2、その結果でもあり、見逃してはいけない部分です。

 当時私の子供達は9歳と13歳。この惨事を伝え、「周囲や大人が間違っていると思ったら、自分の感性と判断を信じて命を守る行動をとるように」と言い聞かせるようになり、家庭の教育方針となっていきました。

*1

「水底を掬う-大川小学校津波被災事件に学ぶ-」(信山社 2021年)P30

教務主任は3月25日の説明では、地域住民と教頭が話し合って三角地帯に向かったと説明したが、6月3日の保護者宛てファックスと保護者会での説明では、自分が校舎にいる間に三角地帯へ移動していた、と説明が変遷。最終的に誰の判断で三角地帯へ移動したのかは不明。

*2

「水底を掬う-大川小学校津波被災事件に学ぶ-」(信山社 2021年)P25

<参考>

ドキュメンタリー映画「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち

https://ikiru-okawafilm.com/

危機管理/広報コンサルタント

東京都生まれ。東京女子大学卒。国会職員として勤務後、劇場映画やテレビ番組の制作を経て広報PR会社へ。二人目の出産を機に2001年独立し、危機管理に強い広報プロフェッショナルとして活動開始。リーダー対象にリスクマネジメントの観点から戦略的かつ実践的なメディアトレーニングプログラムを提供。リスクマネジメントをテーマにした研究にも取り組み定期的に学会発表も行っている。2015年、外見リスクマネジメントを提唱。有限会社シン取締役社長。日本リスクマネジャー&コンサルタント協会副理事長。社会構想大学院大学教授

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