大怪我による1年の療養から復帰するジョッキーが妻に誓うこととは……
復帰してすぐにまた大事故に
丁度1年前の2019年12月。達城龍次は大井競馬場で騎乗していた。
「11月に落馬をして顔面を骨折しました。それから復帰して2日目の事でした」
レース前はいつもと何ら変わらぬ光景だった。ゲートが開いた後も、馬群の中でたんたんとレースを進めていた。しかし、その後、前の馬がおかしなステップを踏むのが目に入った。
「前の馬が転倒するのが分かりました。突っ込んだらひっくり返ると思ったけど、一瞬の事で防ぎようがありませんでした。半ば仕方なく飛び降りる感じで回避しました」
競走は中止したが、上手に着地出来たかと思えた。しかし、次の刹那、とんでもない衝撃に襲われた。
「後ろを走っていた馬が僕を避け切れずぶつかってきました」
一瞬のうちに大腿骨骨折に加え左手も開放骨折という大怪我に見舞われた。
「『折れてないでくれ!!』と祈ったけど、痛みがひどかったので間違いなく折れていると思いました。過去には40カ所くらい骨折をしているけど、この時ほど痛いのは初めてでした」
すぐにタンカで医務室へ運ばれた。それから救急車で病院へ運ばれるまで更に30分程度を要した。
「長く感じました。でも不思議と痛みはひいていきました。何か痛みを緩和するホルモンが出ていたのだと思います」
病院に着くと、17年に結婚した妻の聖月(みづき)がすぐに駆けつけてくれた。
武豊に憧れ騎手になり海外でも騎乗
達城は1978年12月19日、神奈川県横浜市で生まれた。父・真次、母・恵美子の下、5歳下の妹と育てられた。母方の祖父、下山喜万多は川崎競馬の調教師。しかし、幼い頃の達城は全く別の道を歩んだ。
「物心がついた時には子役として芸能界で仕事をしていました。ドラマにも出たけど、スポーツ選手になりたくて、野球やポケバイをやっていました」
運動神経は良く「県から運動能力を認められて表彰されたこともあった」。
そんな頃、たまたま見たテレビが人生の転轍機となった。
「オグリキャップが勝った競馬をテレビ観戦しました。乗っていた武豊さんに憧れ、騎手を目指そうと思いました」
そのために野球を止めて器械体操を始めた。また、乗馬クラブにも通い始めた。中学卒業時にJRAとNAR、更には高校も2校、受験した。
「JRA以外は全て合格しました。結局、高校には行かずNARの騎手養成課程に進むことにしました」
96年4月10日、大井・高岩隆厩舎から騎手デビューを果たした。
「ビワハヤヒデを見て『格好良い』と思ったので同じ勝負服にしました。初騎乗は全く記憶に残っていません。それだけ緊張していたのだと思います」
デビュー後には海外競馬にも興味を持った。2003年、村上頼章厩舎に転厩すると渡米のチャンスを得た。
「技術向上のために約1年間、行かせてもらいました。牧場やトレセンで働きながら騎乗依頼をもらってレースに乗りました」
落馬も2度、経験し、背骨骨折や腎臓損傷などの大怪我をしたが、痛み止めを飲みながら騎乗した。「怪我のせいで20レースほどしか乗れなかった」と本人は照れながら言うが、現地では無名の東洋人がこれだけ乗れれば恥ずかしい事ではない。それどころかベルモントやピムリコ、アケダクトといった一流のコースでも騎乗したのだからむしろ立派なものだ。
「勝てなかったけど、アメリカのジョッキー同様、ステッキの持ち替え一つでも格好良く乗る事を心掛けました」
公私ともに充実していた矢先……
04年からは再び大井で乗り出すと、07年には通信制の高校に入学。週に1度は登校し、膨大なレポートを提出しながら競馬に乗り続けた。10年に高校を卒業する頃から成績は良化。村上厩舎から松浦備厩舎を経てフリーとなり、30歳を過ぎてから毎年のように前年を上回る成績を残し続けるようになった。
充実したのは成績だけではなかった。プライベートでも同様だった。友人の紹介で知り合った女性と1年4ケ月の交際を経て17年に結婚。子宝にも恵まれ順風満帆と思えたそんな時、冒頭で記した落馬に遭った。
「医者からは『復職は難しい』と言われ、手術は2時間に及びました。多量の内出血でパンパンに腫れた足を引っ張られた時は強烈な痛みが走りました」
しかし痛みとの闘いはまだ序の口だった。
「術後、麻酔が覚めてからは耐えられないほどの激痛に襲われました。折れた左足だけでなく右足にも痛みを感じるようになりました」
強めの痛み止めも効力を発揮するのは僅かな時間だけだった。そんな激痛は1週間続いた。
「寝たきりでトイレもいけないので尿道に管を通していました。2週間くらいして車椅子、1ケ月と少ししてから松葉杖を使えるようになりました」
2ケ月後の退院時も医療用ステッキをつかないと歩けなかったが、それよりも辛い事があった。途中、新型コロナウィルスの影響で家族との面会が謝絶されたのだ。
「妻は僕が寝ている間にも氷嚢を変えてくれるなど、献身的に接してくれました」
その間、寝たふりをしていたと言う達城は、怪我をした事よりも家族に会えなくなった事が辛かったと続けた。
復帰の目処が立ち、愛妻に誓ったこと
骨がつくまでには約半年を要した。その後も膝や股関節の痛みは続いた。9月になり髄内に入れていた釘状の棒を外してからようやく痛みがひいた。
「夏場にリハビリがてら牧場で馬に乗りました。11月16日には調教での騎乗を再開。思った以上に違和感なく乗れました」
多くの騎手仲間が戻って来た達城を歓迎してくれた。落ちた際、避け切れなかった馬に騎乗していた的場文男に謝罪されたが笑って答えた。
「あれはいくら的場さんでも避け切れません。僕も的場さんも運が悪かっただけ。何の恨みもありません」
12月7日から始まる開催で1年ぶりとなるレース復帰を予定している達城は続けて言う。
「妻のためにも2度とこんな大きな怪我をしないよう心掛けて乗ります」
療養中に忘れられない出来事があった。
「『コロナの影響で会えない時期があったけど、全然心配していなかったよね?』って軽い気持ちで茶化したら『家で泣いていたんだから……』と言われました。僕の前では気丈に振舞っていたけど『そうだったんだ……』って思うと、改めて申し訳ない気持ちになりました」
妻の気持ち、そして妻への気持ちを乗せ、達城龍次の新たなる歯車が今、回り始める。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)