賭け碁に勝ち、豊臣秀吉から側女を奪い取った、伊達政宗の家臣・茂庭綱元とは
賭博と言えば、今やあるスポーツ選手とその通訳をめぐって大騒ぎになっている。賭博で人生を台無しにすることがあるので、注意が必要だ。
ところで、伊達政宗の家臣の茂庭綱元は、豊臣秀吉との賭け碁に勝ち、その側女を奪い取ったという。その経緯を確認しておこう。
綱元は天文18年(1549)に良直の子として誕生した。天正18年(1590)に奥州仕置が行われ、その後に勃発した葛西大崎一揆で、政宗が背後で扇動していたことがばれた。政宗は秀吉に弁明するため、綱元を先んじて派遣した。
綱元の屋敷には、本多正信(徳川家康の家臣)、施薬院全宗らが訪れるようになった。施薬院全宗は秀吉に綱元の家系が長生きであることを説明すると、秀吉は綱元に長命の秘薬といわれる「湯ノ花」を献上させた。
秀吉は綱元が石見守だったので、「石見湯」と名付けて毎日朝夕、これを飲んだと伝わっている。綱元の説得の甲斐もあって、政宗は処分を免れ、事なきを得たのである。
以後、綱元は秀吉の取次を担当した。なお、綱元のもともとの姓は「鬼庭」だったが、鬼が庭にいるのは縁起が悪いということで、茂庭に改姓したという。綱元は取次として秀吉と折衝するうちに、気に入られるようになった。
京都の伊達屋敷には、政宗の側女の藤が住んでおり、たいそうな美人だった。これを知った秀吉は、乳母の多喜子(綱元の異母姉)に差し出すよう命じた。
かつて千利休の娘が同様のことで自害し、利休も切腹に追い込まれたので、多喜子は命じられるままに藤を差し出した。狩りから帰ってきた政宗はこれを知って激怒し、多喜子を追放したのである。
多喜子が追放されると、綱元は秀吉のもとに向かい、賭け碁の勝負を申し出た。条件は、秀吉が勝てば綱元が家臣になり、綱元が勝てば秀吉の側女をもらい受けるという条件だった。結果、綱元は勝利したので、秀吉の側女の香ノ前をもらい受けたのである。しかし、これが悲劇のはじまりだった。
政宗は綱元が側女をもらい受け、秀吉の家臣になるという誤報を吹き込まれ、追放したのである。しかも、綱元に与えられた隠居料は100石で、これを越えた場合は引き継いだ息子の良元を改易にすると申し渡した。
結局、綱元は伊達家を出奔したものの、政宗の奉公構(仕官の妨害)で仕官が叶わなかった。ようやく政宗の許しを得て、伊達家に戻ったのは、慶長2年(1597)のことだった。