ついに金融庁が動くか、年金基金の実態暴露と抜本改革
金融庁の森信親長官は、4月7日の講演において、金融界に鉄槌を振り下ろしました。国民の利益の視点から投資信託の現状を厳しく批判し、旧き悪しき業界構造を倒壊転覆させるに十分な大激震を起こしたのです。そして、同時に、年金基金の資産運用についても、受益者である国民の視点において、抜本的改革の必要性を主張しました。さてさて、金融庁所管外の年金基金に言及した森長官の真意は何処にありや。
森信親金融庁長官の画期的な講演
4月7日の森信親金融庁長官の講演内容は、同日に金融庁のウェブサイトに公開されていて、誰でも読むことができますから、ぜひ一読を勧めます。極めてわかりやすい内容で、また、異例の率直さで資産運用業界の悪弊を剔抉したものとして、資産運用に関心のある人にとっては必読文献でしょうし、そうでない人にとっても痛快で有益な読物になること請け合いです。
資産運用とはいっても、講演の多くの部分は、投資信託の惨憺たる現状の批判に費やされているのですが、最後のほうでは、年金基金の資産運用に関して極めて重要な発言がなされています。長いですが、その全てを次に引用しましょう。
「運用会社だけでなく、アセットオーナーの役割も重要です。例えば、年金基金には、掛け金をかけている国民に対するフィデューシャリー・デューティーを十全に果たすことが求められます。アセットオーナーは、自らの資金を委託するのに最もふさわしい能力を持った運用会社を見極める必要がありますが、仮に企業年金が、運用のマンデートを運用会社グループとのリレーションで与えているとすれば、それはフィデューシャリー・デューティーの観点に照らして問題があります。
アセットオーナーとしてのクオリティが高く、中長期的に素晴らしい運用成績を挙げている米国の大学の基金や年金基金には、例外なく、優れた目利き力、運用能力を持った責任者がいます。我が国の企業年金についても、企業内の人事異動でなく、プロとして適切な能力・判断力を有した責任者を内外の幅広い候補者から選び、配置することが望まれます。アセットオーナーとアセットマネージャーの双方が共に本源的な実力を高め、究極の受益者である国民に対するフィデューシャリー・デューティーを果たしていくことが、日本の運用業界の成長につながるのだと思います。」
暴かれる年金基金の貧困な実態
長官の講演は、はからずも、森長官の口から、年金基金の貧困なる実態が暴露されているようにみえます。
「仮に企業年金が、運用のマンデートを運用会社グループとのリレーションで与えているとすれば」という表現は、仮定形をとってはいますが、日本語理解の常識として、「企業年金が、運用のマンデートを運用会社グループとのリレーションで与えている」という事実認識の婉曲表現であると考えるべきです。
また、「我が国の企業年金についても、企業内の人事異動でなく、プロとして適切な能力・判断力を有した責任者を内外の幅広い候補者から選び、配置することが望まれます」は、単なる希望の表明ではなく、反語的表現として、企業年金の資産運用管理者の選任が不適切である実態の指摘と解釈すべきです。
アセットオーナーのフィデューシャリー・デューティー
長官の発言には、耳慣れない片仮名が使われています。まず、アセットオーナーとフィデューシャリー・デューティーです。
投資運用業の立場からいえば、顧客がアセットオーナーです。投資信託ならば、個人投資家でしょうし、投資一任契約ならば、年金基金等の機関投資家になります。機関というのは意思決定の組織、即ち、ガバナンスの機関のことですから、機関投資家というのは、統治構造を備えて業務として資産運用を行う法人のことであり、具体的には、年金基金のほか、金融機関、財団、学校法人などを指します。
アセットオーナーは、投資運用業者に投資判断を一任するほか、自身の判断で資産運用を行います。機関投資家のなかでは、金融機関、財団、学校法人などは、投資運用業者も利用しますが、自身で資産運用を行うほうが普通かもしれません。しかし、年金基金は、投資運用業者を通じて資産運用を行うことが原則となっています。
フィデューシャリー・デューティーは、一言でいえば、専らに顧客のために働くという理念に帰着し、そこに二つの要素を含みます。一つは、職務の遂行において、自己もしくは第三者の利益を一切顧みないという厳格な忠実義務であり、二つは、顧客の利益の最大化のために専門家として最善を尽くすという高度な注意義務です。
さて、運用会社、あるいは長官はアセットオーナーとの対比においてアセットマネージャーという言葉も用いていますけれども、その運用会社にとっては、フィデューシャリー・デューティーを負う相手は顧客になることは自明です。しかし、アセットオーナーには顧客がないわけですから、フィデューシャリー・デューティーを論ずる余地はないようにみえます。
実際、例えば、銀行や保険会社などの金融機関の自己財産運用の場合には、まさか他人の利益を顧慮するわけもなく、稚拙な運用で損をしても他人に迷惑をかけることもないので、フィデューシャリー・デューティーの適用があるはずもありません。
しかし、アセットオーナーのうち、年金基金や財団等の場合、資産運用の成果は自分に帰属するのではなくて、最終受益者、即ち、年金制度の加入員と受給者や、財団等の目的に適った支出によって利益を享受するものに帰属しますから、運用会社と全く同じようにフィデューシャリー・デューティーを負うのでなくては、最終受益者の利益は守られなくなります。森長官は、この重大な論点を指摘しているのです。
「顧客本位の業務運営に関する原則」
森長官が言及している「米国の大学の基金や年金基金」については、フィデューシャリー・デューティーが法律として課せられているのに対して、日本の事情は異なります。
長官の講演に先立つ3月30日に、金融庁は、「顧客本位の業務運営に関する原則」を公表しています。ここには、フィデューシャリー・デューティーという言葉は使われなくなっていますが、正式な原則の公表前までは、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」というふうに表現されていて、二つは同じものとして説明されていたのです。
さて、この原則ですが、これは、いわゆるソフトローというもので、法律等のルールではないのですが、資産運用関連業務に携わる金融事業者が自律的に自己の行動原則を定めて対外的に公表し、その遵守を確約することで、客観的な規範としての効力を発動せしめるものです。
金融庁が公表したものには、具体的な行動原則が示されていますが、それは金融庁が定めたルールではないのですから、各金融事業者において、コンプライ(受け入れ表明)するか、コンプライしないでエクスプレイン(コンプライしない理由を説明)するかは、自由に決めればいいのです。ただし、ひとたびコンプライし、自己の行動原則を自己規律として公表すれば、それは、社会の監視のもとで履行が強制される客観的規範として、金融庁の定めたルール以上に重大な意味をもつことになります。
年金基金のフィデューシャリー・デューティー
では、森長官の講演での発言は、アセットオーナーとしての年金基金にもフィデューシャリー・デューティーが課せられるという金融庁の認識を示したものなのか
企業年金の運用会社の選定に関する言及は、企業年金の資産運用は専らに制度の加入員と受給者の利益のためにだけになされなければならず、そこでは母体企業の利益は一切顧慮されてはならないという厳格な忠実義務を述べたものであり、また、企業年金の資産運用管理者の選任に関する言及は、受益者の利益のために最善の運用が行われることを求める厳格な注意義務を述べたものです。
つまり、企業基金は、加入員と受給者という最終受益者に対する関係で、フィデューシャリー・デューティーを負うと明確にいっているのです。そして、「年金基金には、掛け金をかけている国民に対するフィデューシャリー・デューティーを十全に果たすことが求められます」というところは、全企業年金の受益者の総体を国民として包括したうえで、より具体的に公的年金の資産運用を念頭に置いたものであることは明瞭です。
「顧客本位の業務運営に関する原則」における顧客本位は、金融庁の正式な用語法においてフィデューシャリー・デューティーと同義ですから、森長官が講演で言及した年金基金のフィデューシャリー・デューティーは、「顧客本位の業務運営に関する原則」と無関係であるはずがありません。
年金基金の「顧客本位の業務運営に関する原則」
では、「顧客本位の業務運営に関する原則」が年金基金に対して適用があると明示的にいっているのかというと、おそらくは、そうではなくて、日本の資産運用の高度化に全身全霊を尽くして取り組むことから生じる自然な心情の吐露として、森長官の強い期待と熱い思いが表明されたと解すべきでしょう。つまり、年金基金、および企業年金の母体企業に対して、「顧客本位の業務運営に関する原則」の受け入れを要請しているのです。
また、そもそも、制度的に、金融庁が所管する「顧客本位の業務運営に関する原則」は、厚生労働省が所管する年金基金にも適用できるのかという問題もあります。
実は、「顧客本位の業務運営に関する原則」の策定過程においては、金融庁が対象を特定しないで広く資産運用関連業務に携わる金融事業者としたことについて、異論もあったわけですが、対象を特定しないほうがいいとする金融庁の強い意向が通ったという経緯があります。
金融事業者は、明らかに、金融庁所管法人に限定されずに、それ以外の法人や個人を含むものだと思われます。要は、資産運用に関連する事業を営んでいれば、金融事業者になるのです。だとすると、年金基金や財団等が金融事業者になることに、疑う余地はありません。
また、そもそも、「顧客本位の業務運営に関する原則」は、ソフトローであって、金融庁が策定したルールではありません。その趣旨に賛同する年金基金において、積極的にコンプライすることは自由です。逆に、趣旨に賛同できないということなら、コンプライしないことも自由ですし、「顧客本位の業務運営に関する原則」は自分に適用がないと思うなら、コンプライしない理由をエクスプレインする必要もないでしょう。
「見える化」と市場原理
ただし、コンプライする年金基金が一つでもでてくると、コンプライしない年金基金の加入員や受給者のなかに疑念も生じるでしょう。そういう疑念をもった加入員や受給者は、自分の属する年金基金に対して、コンプライしない理由のエクスプレインを求めればいいのです。
そのとき、企業年金ならば、企業側は、運用会社の選定に際しては銀行等の借入先や大株主である金融機関との友好関係の維持を考慮するとか、定年退職者や役職定年者のための職場確保として年金基金の管理者を選んでいるとか、そういう会社都合の説明はできないでしょう。適正な説明ができるようにする努力は、必然的にコンプライできるだけの態勢構築に向かわせるはずです。
もしも、説明のできない現状を放置するならば、企業として社会的に通用し得ない低次元のコーポレートガバナンスの実態を証明するようなものです。そのような馬鹿な企業があるでしょうか。ならば、結局、企業全体として、コンプライする方向へ力が働くのです。
森長官は、そういう力の働き方を、「見える化」を通じた市場原理としてとらえ、それを行政課題の実現手法にしているのです。そこで、全体を動かすためには、自主的にコンプライする年金基金がでてこないといけなくなります。
率先してコンプライする会社は、間違いなく、超優良企業です。ある会社がコンプライすることで超優良企業である事実を「見える化」する、そうすれば他社も「見える化」の努力を促される、その切磋琢磨が改革を推進する、これぞ森長官流の行政手法なのです。