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豊臣秀次だけではなかった! 後継者不在に悩んだ豊臣秀吉が迎えた3人の養子

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 近年、老舗の企業であっても、後継者が不在なことにより、廃業を余儀なくされる例があとを絶たないという。豊臣秀吉も後継者の問題に悩まされ、何人かの養子を迎えることになったが、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎秀勝(於次秀勝)

 秀勝は、永禄12年(1569)に織田信長の子として誕生した。天正5年(1577)から翌年にかけての間に、秀勝は秀吉の養子に迎えられたと考えられている。

 秀吉が秀勝を養子に迎えた理由は、実子がいなかったことに加えて、織田家との紐帯をいっそう強めようとしたからだろう。

 天正11年(1583)、秀勝は丹波亀山(京都府亀山市)を領することになり、毛利輝元の養女と婚約した。以後は秀吉の命に従って各地を転戦し、順風満帆だった。

 しかし、天正13年(1585)から病に伏すようになり、18歳という若さでこの世を去ったのである。

◎秀俊(のちの小早川秀秋)

 秀俊は、天正10年(1582)に木下家定の子として誕生した。家定の妹は、秀吉の妻「おね」だったので、秀俊は身内だったのである。

 天正12年(1584)、秀俊は秀吉の養子になった。その後、秀俊は秀吉から厚遇され、丹波亀山(京都府亀岡市)に10万石を与えられた。

 秀俊は同じ養子の秀次に次ぐ、豊臣家の家督後継者とみなされていた。しかし、文禄2年(1593)に秀吉に子の秀頼が誕生すると、すっかり風向きが変わった。

 その翌年、秀俊は秀吉の命によって、小早川隆景の養子になったのである。とはいえ、秀俊は中納言に昇進し、豊臣ファミリーの一員だったのには変わりなかった。

◎秀勝(小吉秀勝)

 秀勝は、永禄12年(1569)に三好吉房の子として誕生した。吉房の妻は、秀吉の姉だったので、秀勝は身内だったのである。

 天正13年(1585)に先述した秀勝(於次秀勝)が亡くなったので、その翌年に秀吉の養子になったという。しかし、秀勝は豊臣家の後継者ではなく、同じ養子の兄の秀次がその候補となった。

 以後、秀勝は秀吉の命を受けて各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。文禄元年(1592)に文禄の役が勃発すると、秀勝は朝鮮に出陣した。

 しかし、巨済島に渡海した秀勝は病となり、ほどなくして亡くなったのである。まだ、24歳という若さだった。なお、秀勝の妻は、のちに徳川秀忠に嫁いだ江である。

◎まとめ

 秀吉はなかなか実子に恵まれなかったので、多くの養子を迎えたが、うまくいかなかった。秀次は後継者の最有力候補だったが、お眼鏡にかなわず死に追いやった。今も昔も、後継者問題は簡単な問題ではなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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