戦後の日本漁業の歴史 その1 戦後しばらくの黄金時代
日本の漁業が衰退している一方で、世界の漁業が成長していることを示しました。
漁業の世界は、日本の一人負けのような状態が続いています。しかし、日本漁業が最初から衰退していたわけではありません。それどころか、戦後から1970年代までは、日本の漁業が世界をリードしていた時代すらあるのです。なぜ、一時期は栄えた日本漁業が、衰退に転じてしまったのか。戦後の漁業の歴史を振りかえりながら、その理由を考察してみましょう。
敗戦・食糧難
1945年(昭和20年)に、日本政府はポツダム宣言を受諾して、米国に無条件降伏をしました。戦争に負けた日本の国土は疲弊し、ただでさえ食糧が不足していたところに、海外から大量に引き揚げ者が戻ってきて、深刻な食糧難に見舞われました。国の配給制度は破綻し、都市生活者は闇米を求めて、農村へ買い出しに奔走しました。
飢えた国民のために食糧を増産するのが、当時の日本の重要な政治課題でした。主食であるコメの増産のために様々な手段を講じました。穀物すら不足する状況では、それを餌にして畜産をする余裕はありません。動物性タンパク質の供給源としては、水産物に大きな期待がかかります。日本は、食糧増産の手段として、国を挙げて漁業を推進しました。
当時の日本政府にとって、海外漁場の確保が死活問題だったことは外交の記録からもわかります。例えば、日本とソ連は1956年に日ソ共同宣言をして国交を回復しました。国交が回復する前に日ソ漁業協定を結んでいます。日本にとって海外漁場の確保が重要であったわけです。日本漁船は、東シナ海、オホーツク海、ベーリング海など、近場の海外漁場から開発を進めて、南米、アフリカ、地中海など、世界中に広がっていきました。
未利用資源をもとめて、海外の漁場を開発
食糧の価値が高く、自らの食い扶持すら不足している状態ですから、参入障壁が低い沿岸漁業には、引き揚げ者など大勢の人間が参入しました。その結果、漁獲努力量が跳ね上がり、一部で資源の急激な枯渇を招きました。九州の西に広がる東シナ海は、かつては世界有数の底魚漁場でした。日本漁船による乱獲によって、戦前にマダイやアマダイなどの資源が壊滅的に減少していました。しかし、太平洋戦争のために、漁船が軍に徴用された結果として、一時的に漁獲圧が緩まり、多くの魚が回復していたのです。残念ながら、回復した資源は再び乱獲されて、現在はほぼ空っぽにしてしまいました。同じような状況は日本全国で見られました。当時を振り返って、全漁連会長(当時)の宮原九一氏は次のように語っています。
敗戦は昭和20年ですから、わずか4年で「魚の洪水」を獲り尽くしてしまったのです。近海の魚が減ってきたので、漁業で財をなしたものは、船を大きくして、より遠くに向かうことになります。次の図は、日本の戦後しばらくの漁獲量(万トン)を示したものです(漁業養殖業統計年報)。青の沿岸漁業が低迷する中で、沖合と遠洋が生産を伸ばしています。
遠洋漁業の発展
外に向かう漁船を束ねたのが、ニッスイやマルハなどの水産企業です。船の上で、冷凍加工が出来る大型の母船が、多くの漁船を従えて船団を組み、世界中の漁場に展開しました。当時の遠洋漁業は、賑やかなものでした。海外漁場を開発すれば、食糧の価値が高い時代に、貴重品である動物性タンパク質を獲り放題なのだから、儲からないはずがありません。中学を卒業したての乗組員が、遠洋漁業の一航海船にのって帰ってきたら、札束を腹巻きに巻いて港で豪遊することが出来ました。遠洋漁業の水揚げ港には、繁華街が栄えました。
戦後の日本漁業の大黒柱は食糧増産、動物性タンパク質の供給でした。そのために、産官学が連携して、海外漁場の開発と漁獲量の増産に励みました。お腹を空かせた国民に動物性タンパク質を供給し、自らも財を成しました。日本の漁業が輝いていた時代です。
下の図は昭和50年の日本の漁場です。世界中の好漁場にはすでに進出していて、今後は南極や南米の残された資源を開発する予定でした。
外に攻めていった日本漁業は魚を獲ることにかけては世界一でしたが、資源の持続性については、あまり配慮をしませんでした。当時は、世界中の漁場が自由に利用できたので、漁業が盛んでない国の沿岸には、手つかずの水産資源がいくらでもありました。魚を獲れるだけとって、いなくなれば、別の漁場で別の魚を獲れば良かったのです。
まとめ
敗戦後の日本は、国を挙げて、海外漁場の開発に励みました。産官学が連携して、漁船の大型化・冷凍冷蔵技術の開発、海外の未利用資源の開発を行いました。遠洋漁業の推進は、食糧増産の観点からも、国内の過剰漁船の解消の観点からも望ましかったのです。