広島カープ、マジック点灯。山本浩二が振り返る1975年の初V その1
インタビューは、後楽園球場の跡地に建つ東京ドームホテル。1975年10月15日午後5時18分、広島がセ・リーグ初優勝を果たしたとき、ちょうど山本浩二が守っていたあたりである。
「ああ、そういうことになりますか。私はセンターを守っていて、柴田(勲)さんの打球が外野に上がった瞬間、"やった、決まった"と……。ウイニングボールを捕ったのは、レフトを守っていた水谷(実雄)だけどね。40年以上前でしょう。いまほど警備が厳重じゃないから、優勝が決まった瞬間にすごい数のファンがグラウンドになだれ込んで、大混乱になったんです。そのうちに古葉(竹識監督)さんの胴上げが始まり、外野を守っていた私は全速力で走ってもそれには間に合わず、参加できなかった記憶があります」
球団創設26年目で初優勝したこの年、広島市民球場は前年の倍近く、チーム最多(当時)の120万人を動員し、いわゆる"赤ヘルブーム"が起きた。だが選手にとって赤い帽子、ヘルメットは、最初は恥ずかしかったという。
「この年から監督になった(ジョー・)ルーツが"燃える色だから"と採用したらしいけど、なにしろ日本の球界では見たことのない色でしょう。照れくさかったですよ。でもそれも、キャンプに入って1週間くらいで慣れた。シーズンに入れば、どうということもなかったですね」
とはいえ広島は、前年まで3年連続最下位で、そこまでAクラスですら一度(68年)しかない。そのチームが、なぜ急に強くなったのか。前年の最下位からリーグ優勝というのは、2リーグ制以後そこまで、59〜60年の大洋しか例がないのだ。
「劇的な変化というのは、まずないんですよ。この年急に力をつけた、というのはありえない。ただ打線でいえばキヌ(衣笠祥雄)、水沼(四郎)は私と同学年だし、水谷がひとつ下で三村(敏之)が二つ下。同じような年代が多く、それが根本(陸夫)監督時代から鍛えられ、徐々に力をつけてきたんですね。もちろん、ライバルだからお互いに負けたくないし、切磋琢磨して脂の乗り始めた時期。その成長のタイミングが、75年にぴったり合ったということでしょう。
そこに、日本ハムから大下(剛史)さんが斬り込み隊長として加わって、勝負強いホプキンスと、陽気なシェーンという外国人がいて。なかでも大下さんの存在は、そりゃ大きかったですよ。地元の広島商出身だし、この年、終わってみれば盗塁王でしょう?」
キャンプ時点では優勝など考えなかった
74年にコーチを務めていたルーツが、監督就任の条件として挙げたのが、その大下の獲得だったともいわれる。そして森永勝也前監督の辞任を受けて昇格するが、当時は、外国人コーチすら異色だった。そもそも、ルーツとカープの接点はどこにあったのか。
「カープは72年、初めての海外キャンプとしてアリゾナに行ったんですが、そのときに、やはり近くでキャンプをしていたインディアンスのコーチだったのがルーツ。われわれも指導を受けたし、当時の根本監督と意気投合したのが縁で、74年に打撃コーチとして来日したわけです。口うるさくいわれたのは"強く振れ"ということと、"集中力"でしたね。
監督になった75年のキャンプでは、セブンスイングという打撃練習をよくやりました。2、3カ所にケージを置いて、7スイングごとに隣のケージに移動する。スイング数が限られると、大事にして打つからより集中するんですよね。いまではどこでも似たようなことをやっているでしょうが、当時は、1人が1カ所でひたすら打ち込むのが普通だったんです。また投手陣に対しては、ルーツのつてでウォーレン・スパーンが臨時コーチとしてきてくれたのも大きかった。なにしろメジャー通算363勝の名投手で、おかげで投手力も向上したでしょうね。
ただ、気性の激しいルーツがいくら"優勝"と力説しても、われわれはだれもそういう経験がないから、キャンプ時点では優勝できるとは思っていませんよ。私が入団した69年当時は、巨人のV9の真っ最中です。長嶋(茂雄)さんがいて王(貞治)さんがいて、勝てる気がしませんでした。しかもチームは、前年まで3年連続最下位。周囲がいうほどには"負け犬根性"というのはなかったけど、まず自分の成績をよくして、給料を上げたい、というのがホンネだったんじゃないかな」