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[高校野球]あの夏の記憶/左足にズック靴、右足にはスパイク 若松勉(北海)その2

楊順行スポーツライター
選手権出場38回と最多を誇る古豪・北海(写真:岡沢克郎/アフロ)

 北海高校に入学して1年秋の新チーム。飛沢栄三部長に「トスバッティングを打ってみろ」といわれた若松勉さんは、ともかくも夢中でバットを振ると、「少しずつ、フリー打撃を打たせてもらうようになりました。どこが認められたのかわかりませんが……」。ただとにかく、入学してから積み重ねた素振りの数だけは自信があった。練習が終わり、どんなにへとへとで下宿に戻っても、バット1本持って近くの豊平川の河川敷に走った。耳はちぎれそうで、軍手なしでは凍傷になりそうな冬も、うまくなりたい一心で日課を続けた。

「冬といえば、近くの藻岩山の山頂に神社があり、その130段の石段を登るランニングのメニューがありました。1年生は、スコップを抱えて40〜50分も走っていき、上級生が走りやすいようにその石段を除雪するんです。あれは大変でしたね。あとは町中を走りながら、女子校の近くを通るときだけは上級生の指示で"北海〜、ファイトッ!"と元気な大声を出したり。そこを通り過ぎると、静かになるんですけどね」

 当時の高校生のやることは、なかなか牧歌的である。高校2年になった1964年、春の大会から試合に出るようになり、北海道大会では優勝。そして、東京オリンピック開催年とあって、日程が変則的だったため、

「北海道大会のあと、6月に国体があったんです、新潟で。そのときは、上級生の一塁手がピッチャーになり、二塁手が一塁に回ったことで、僕はセカンドで出ました。そこからですね、レギュラー定着は。北海道に戻った直後、新潟で大地震があったのにはびっくりしましたが……。ただその夏は気管支炎で甲子園に行けずに悔しい思いをし、秋は秋で北海道の決勝で苫小牧東に負けて、5年続いていたセンバツの連続出場が途切れてしまいました」

沖縄まで4日かけて移動

「もうひとつ覚えているのは、64年の年末から正月にかけて、北海道選抜メンバーとして沖縄に遠征したんです。当時はまだ沖縄の本土復帰前で、パスポートが必要な時代。ワクワクしましたが、汽車と船を乗り継いで移動に4日かかったのは辛かったですね。鹿児島から沖縄までは、船で30時間くらいだったと思います。だけどその遠征で、僕はけっこう打ったんです。それと冬だというのに気温が20度もあり、泳ごうかと思ったくらい(笑)。ヤクルトの監督をしていた2000年、ちょうど浦添キャンプの時期に、その当時の北海道、沖縄のメンバーが何人か集まって同窓会をやったこともありました。そういう、人と人のつながりが続くことも高校野球の魅力のひとつですね」

 そして3年になると、春には左足首を骨折したが、最後のチャンスで甲子園への切符をつかむ。前回ふれたように、日本人としては生涯打率トップ(4000打数以上、現役の青木宣親を除く)の好打者でありながら、骨折の影響もあり、甲子園ではベンチ入りぎりぎりの背番号14だった。

「甲子園ではケガも回復したので、さすがに北海道大会のようにズックは履かずにすみました(笑)。甲子園というのは、いざ入ってみるととにかく広くてね、ホームまでが遠くて、北海道のグラウンドとは違うし、それと滞在中は暑さにもまいりました。ただ、相手は佐賀商だったんですが、試合そのものはナイターになったので、暑さはまだマシだったかな。外野の芝生が照明に映えてきれいでしたし、守備位置からスタンドも美しく見えましたね。背番号14で三番の僕は4打数1安打でしたが、エラーでも出塁して、2回の出塁でそれぞれ二盗、三盗。合計4回盗塁しているんです。ただ、ウチのピッチャーが打たれてねぇ……センターを守る僕は左中間、右中間と忙しく打球を追って、かなりきつかった記憶があります。勝つつもりでいましたから、3対8で負けたときは悔しいというよりも、どこか呆然として、涙も出ませんでした」

うれしかった駒苫の優勝

 若松さんのその時代から、ほぼ40年。04〜05年の夏には、駒大苫小牧が北海道勢として初めて全国制覇を遂げる。古豪かつ強豪、つねに北海道をリードしてきた北海OBとしては、さぞや複雑な気持ち……と思うと、どうもそうでもないらしい。

「悔しさはなかったですね。北海道出身者として、"優勝してくれ"とホンネで思っていましたし、自分たちができなかったことを、よく達成してくれたという思いです。いまは、毎年のように北海が甲子園に出ていた時代とは違いますね。僕らのころは男子校だったのが、99年には男女共学になりましたし、進学にもかなり力を入れて、入学もむずかしくなっていると聞きますから」

 ほかにおもしろかったのは、若松さんの「ネギ嫌い」。中学時代、野球部の顧問に、「ネギを食べれば、風邪を引かないようになる」といわれて、山盛りのネギを無理矢理食べさせられた。もともと好きではなかったネギが、それ以後は見るのもイヤになった。ところが、高校に入学してみると、野球部が伝統的にお世話になる下宿では、生のタマネギに味噌や塩をつけて食べる習慣があった。カレーに入っているタマネギ程度でも、スキを見てはき出すくらいの若松さんにとって、生タマネギを食べるなど、拷問に近い。見つからないようになんとかポケットに隠し、学校で処分していたという。

「できるものならもう一度、高校時代をやってみたい」という若松さんだが、「ネギも食べなきゃいけない(笑)? それはちょっとなぁ……」と苦笑するのである。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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