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占い師に導かれ台湾プロ野球へ。高校野球コーチからプロになった「激レアさん」の「あと一歩」の野球人生

阿佐智ベースボールジャーナリスト
台湾プロ野球初の「NPBを経ない最初の日本人選手」となった金子勝裕(本人提供)

 宮城県仙台。ユニフォーム姿の少年たちにまなざしを送るひとりの中年男。全国のどこででも見られる週末の風景だ。時に厳しい叱咤激励の声が響き渡ることも多い少年野球のシーンだが、ここではそのような光景は見られない。優しく語りかける男の声に少年たちは尊敬のまなざしを送りながら耳を傾けている。

「あまり自分からは言うことはないんですけど」

と自らの経歴を誇ることもないその男の語り口からは謙虚な人柄がうかがえる。現在49歳。サラリーマンをしながら、ボランティアで小学生と中学生に野球を教えている。小学生の学童野球では監督を務めている。一家の主としては土、日はゆっくり体を休めるか、家族サービスをしたいのも本音だろうが、野球への恩返しと、やはり心底野球が好きなのだろう。週末になるとグラウンドで汗を流している。

現在は監督して少年野球チームを率いている金子氏(本人提供)
現在は監督して少年野球チームを率いている金子氏(本人提供)

 その男、金子勝裕は元プロ野球選手だ。と言っても、日本のプロ野球、NPBの資料をいくら探してもその名を見つけることはできない。十数年前にスタートした独立リーグの記録にも彼の名はない。彼が四半世紀前プレーしたのは、海を越えた台湾プロ野球だった。

「プロだったって言っても、台湾でのことですから。でも、子供たちも知っていると思いますよ。彼らのお兄ちゃんたちに話したことはあるんです。台湾時代、よく少年野球教室があったんです。当時、春のキャンプにも近隣の小学生や中学生が来て、ボール拾いなんかを手伝ってくれたんです。そういう中で、選手が野球を教えることが多かったんですが、その時の子供たちの印象がとても強かったんです。すごく楽しそうに元気に野球をやっていましてね。今の子供たちにも、台湾の子たちも一生懸命やっているよ、だから最近は台湾も力をつけているだろって、それを伝えたくて何かの機会に言いました。僕は昔台湾のプロ野球選手だったんだって」

いつも立ちふさがっていた壁

金子は、今年の春の選抜高校野球に初出場した柴田高校の2期生だ。2級下の後輩には、千葉ロッテの名ショートとして活躍した小坂誠がいる。2年秋の県大会では決勝まで進んだが、そこに強豪・仙台育英のエース大越基(のちダイエー)が立ちふさがった。それでも準優勝チームとして選抜のかかった東北大会に出場はしたが、甲子園への夢は夢のままかなわなかった。

 大学は地元の東北学院に進んだが、ここでも強豪・東北福祉大が立ちふさがり、優勝は遠い夢に終わった。

「当時向こうには、元阪神の金本(知憲)さんや今の監督の矢野(耀大)さんなどそうそうたるメンバーがいましたから。同級には、ドラフト1位で日本ハムに入った関根(裕之)君がいました。福祉大には1回も勝てなくていつも2位という感じでした」

 選手個々の実力だけではなかった。卒業後、金子は盛岡大学付属高校のコーチの職を得るが、東北福祉大OBの監督からはこう言われた。

「俺たちはお前たちを常に分析して、何度やっても負けないような準備をしていたんだ」

 大学卒業時、社会人野球に進む選択肢もあったが、指導者の道を選んだ。大学時代、目の上のたんこぶだったライバル校出身の監督は、高校時代の恩師でもあった。監督と同じ部屋で同居。給料も微々たるものだったが、野球の勉強をさせてもらっていると思えば気にならなかった。なによりも高校生たちと野球に打ち込むことが楽しかった。監督からは、一緒に体を動かしてくれと言われていた。大学を出てすぐの若者には、細かな指導よりは、精神的にも未熟な高校生たちの手本となることを求められているようだった。

 のちに甲子園出場も果たす高校だが、当時はグラウンドも狭く、他クラブと共用せねばならないほどだった。十分な距離をとれないため、外野ノックは、学校の敷地外の田んぼのあぜ道から高いフェンス越えの打球を打たねばならなかった。このノックを打つうち、金子は現役時代にはつかめなかった飛距離を伸ばすコツを得た。

占い師に導かれ台湾へ

 機会は突然やってきた。コーチをして1年が経とうとした頃、突然目の前に初老の男が現れた。占い師と名乗るその男に警戒心を抱くほどの社会経験をまだ金子はもっていなかった。仕事で台湾にも行くというその男は唐突もなく切り出してきた。

「プロ野球選手にならねえか?」

その時のことは詳しく思い出せないと金子は笑う。自分の人生の大きな転機だったその瞬間の記憶があいまいなのは、その占い師に魔法でもかけられていたからかもしれない。

 その「占い師」がどうして自分のことを知っていたのか、今となっては知るよしもない。彼との付き合いは、その時だけで、彼からはなんの見返りも求められなかった。プレーから離れて1年も経とうかという無名の若者の前に突如として表れて、外国でプロ野球選手になろうなどとは、何か詐欺めいたものさえ感じるが、台湾球界にパイプをもつ著名な作家を紹介されたこともあって、金子の頭からはすっかり疑うという考えは消えていた。

「今から考えれば、占い師の人は、どうもその作家さんと知り合いでもなんでもなく、僕と同じように突然話をもっていったようなんですけど」。

 東北の片隅で高校のコーチをしている若者が海を越えてプロ野球選手になるというのが、その男の占いの結果だったのかもしれない。

はたして、その占いは「当たった」。

当時、台湾プロ野球は草創期。とにかく選手が足りなかった。1992年のバルセロナ五輪での銀メダルは野球人気を沸騰させ、発足当時の4球団制は6球団に膨れ上がっていた。金子を紹介された作家は、新興の俊国ベアーズに連絡をとってくれた。前年に一旦引退していた日本人投手、野中徹博(前阪急)を獲得して成功した俊国は、たとえ実戦から離れていてもレベルの高い日本でプレーした選手なら大丈夫と考えたのだろう。まだ23歳と若い金子にチャンスを与えることにした。

 降って湧いたような話にとまどう金子の背中を押したのは、勤務していた高校の監督だった。常日頃、大きな夢をかなえるために、目の前の小さな目標にチャレンジしなければならないと選手たちに伝えていた監督は、金子にこう言った。

「夢を夢で終わらせるんじゃなくて、チェレンジして実現する姿を子どもたちに見せてあげなさい」

 金子は再びプレーする決心をした。月給6万元、日本円で24万円ほど。向こうでも最低レベルだったが、気にはならなかった。

1.17。阪神淡路大震災の日の旅立ち

 台湾に渡る経緯については記憶が定かでない金子だが、台湾に渡った時のことは鮮明に覚えている。1995年1月17日。阪神淡路大震災が起こったその日に金子は仙台を発った。その16年後、自分が大震災を目の当たりにすることになるとは当時は思いもよらなかったが、遠い関西の地で大惨事が起こっているのをよそに、金子はビザ申請のために東京へ向かった。野茂英雄が日本野球に三行半を突き付けてメジャーに挑戦したこの年、海を渡って野球をするという者はほとんどいなかった。東京・白金台の台北駐日経済文化代表処(台湾の大使館にあたる施設)を訪ね、プロ野球の入団テストを受けに行くと告げると、通常2日かかるビザを1日で発給してくれた。ビザのスタンプを押されたパスポート片手に、金子は羽田から台湾への飛行機に飛び乗った。

「こんなところに国際線の便が着くのか」

 台北市内の小さな空港に到着した時の第一印象だった。初めての海外。日本を出るとこうも変わるのかとなんとも言えない気になった。日本では「助っ人ガイジン」の到着となると、球団スタッフが迎えにきて、メディアがカメラのフラッシュを焚くのが常だが、そんな華やかなシーンはなかった。金子は球団から事前にもらっていたメモを開いた。そこには日本語と中国語で球団事務所への道が示されていた。俊国ベアーズの本拠地はここから150キロほど離れた台中という町だった。示されたとおり空港からバスに乗り、バスターミナルからは運転手にメモを見せてタクシーに乗った。球団事務所に到着すると、そのまま寮に連れていかれて、台湾最初の夜を過ごした。翌日、キャンプ地に行くからと、言われるがまま用意された車に乗った。ずいぶん長いドライブの後、チームがすでに始動している台東のキャンプ地に到着した。台中の寮を出発して実に6時間が経っていた。

テストに合格し「プロ未経験者初の日本人選手」に

 この時点の金子はまだ、テスト生という扱いだった。不合格が言い渡されれば、プロ野球選手になることなく、そのまま荷物をまとめて帰国となる。

初めて目にしたプロの世界だったが、十分にやっていける手ごたえは感じた。レベル的には日本の社会人野球最高峰の都市対抗と同等くらいではないかと思った。監督の前田益穂以下コーチ陣にも日本人が多かったことも幸いしたのかもしれない。外国でプレーする際の最初の壁になる言葉や文化面での葛藤は回避できたからだ。

 台湾のキャンプは長い。年明けから3月中旬の開幕まで延々と続く。これが金子には幸いした。実戦を離れて1年以上になる野球勘を取り戻すことができたし、アピールも十分にできた。1年のブランクはあったが、高校で指導する際、球児と同じメニューをこなしていたせいか、体力的に問題はなかった。体力的にはむしろ年齢的に若い自分の方があると感じた。バッティングに関しても、飛距離だけなら他の選手にひけをとることはなかった。 

 無我夢中でひと月が過ぎ、オープン戦が始まった。ここで2試合の出場機会を得た金子は、結果を残した。ちょうどその時がコンディションのピークだったことも幸いした。1試合目の1打席目でホームラン。続く2打席目もライト前タイムリーを放つなど、2試合で5打数3安打、4打点と結果を残した金子は選手契約を勝ち取った。

初めて手にしたプロのユニフォームの背番号は「7」だった。
初めて手にしたプロのユニフォームの背番号は「7」だった。

 そしてついに開幕を迎えた。あこがれのプロの舞台だったが、スタジアムは想像していたよりもこぢんまりとしていて少し拍子抜けした。ただ試合が始まれば、応援団の大音響がスタンドに響き渡り、ファンの熱狂を感じた。大学の施設を間借りしているという本拠地球場のフィールドは日本のそれに比べればひどいものだったが、公式戦では、ラッパが鳴ったり、花火が上がったりで、プロ野球に相応しい風景が繰り広げられていた。珍しい日本人選手として新聞で取り上げられると、翌日には町を歩けば声がかかるようになった。

(続く)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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