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【戦国こぼれ話】大坂夏の陣で戦死した真田信繁は、歯が欠けて白髪という冴えない容貌だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁は、歯が欠けて白髪という冴えない容貌だった。(写真:イメージマート)

 407年前の今日(5月7日)は、真田信繁が大坂夏の陣で戦死した日である。ところで、信繁の容貌は冴えないもので、歯が欠けて白髪だった。この点を考えることにしよう。

■真田信繁とは

 永禄10年(1567)、真田信繁は昌幸の子として誕生した。信繁は、かつて「幸村」と称されていたが、それは俗称として退けられている。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に至る信繁の動静については、あまり詳しいことはわかっていない。知られるようになるのは、慶長19年(1614)にはじまる大坂の陣以降である。

 関ヶ原合戦後、信繁は父の昌幸とともに、九度山(和歌山県九度山町)での幽閉生活を余儀なくされた。この間、信繁と昌幸は「打倒徳川家康」を実現すべく、日夜、作戦を練っていたという。しかし、その話は後世の逸話に過ぎず、実際は史実ではないと指摘されている。

 また、真田十勇士の面々が信繁の命に従い、各地で諜報活動を行っていたというが、こちらの話も創作である。そもそも真田十勇士の存在自体が疑わしいというか、史実ではないのである。

 実際のところ、父の昌幸はすっかり衰え、家康に赦免を乞うて、一刻も早く故郷の上田(長野県上田市)に帰郷したいと考えていた。実際に昌幸は関係者を通して、運動をしていたのである。

 しかし、その願いは叶わず、昌幸は無念の思いを抱きながら病死した。昌幸といえば、最後まで家康を打倒するという強い信念の持ち主のように思えたが、それは嘘だったのである。

■信繁の容貌

 当時の戦国大名の画像は残っている人物のものもあるが、まったくの同時代のものに限ると、そんなに多くはない。近世になって描かれたものが大半ではなかろうか。もちろん、同時代における信繁の画像は残っていない。

 信繁の風体は、どのように描かれてきたのだろうか。大坂の陣の直前、大坂城に入城した信繁は、出家して「伝心月叟」と名乗り山伏のような姿をしていたという(『武林雑話』)。しかし、これは後世の記録によるので、いささか疑わしい。

 慶長17・8年(1612・13)頃に推定される2月8日付の信繁書状(姉婿・小山田茂誠宛)の追伸には、次のとおり書かれている(「岡本文書」)。

 それは、信繁自身が年をとったことが悔しくてならないこと、昨年から突然老け込んで思いがけず病人になってしまったこと、すっかり歯が抜けてしまったこと、髭なども黒いところが少なくなり白髪が増えたこと、などである。

 父の昌幸と同じく、幽閉生活を送っていた信繁の生活も荒んでいた。日々の楽しみといえば、学びはじめた連歌くらいで、あとは酒を飲むことだけだった。生活は厳しかったのである。おまけに、健康も害していたようだ。

 私たちからすれば、信繁はアイドルさながらのイケメンか、あるいは野武士のような力強い男性だったかのようにイメージするが、実際は冴えない容貌だった可能性が高いのである。

■むすび

 慶長20年(1615)5月7日、信繁は戦死したが、首実検の際には本当に信繁の首かわからなかったという。伯父の信尹でさえも、長らく会っていなかったので判別できなかったといわれている。徳川方が牢人狩りに精を出したのは、そういう事情によるのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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