【光る君へ】宮仕えした清少納言と紫式部。2人の性格や仕事への意識の差とは?
大河ドラマ「光る君へ」では、清少納言が一条天皇の中宮・藤原定子に仕えていた。一方で、紫式部も一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えることになる。2人はどういう気持ちで仕えていたのだろうか?
清少納言が藤原定子に仕えたのは、正暦4年(993)の冬頃だったといわれている。清少納言が定子に初めて仕えたときの模様は、『枕草子』181段「宮にはじめてまゐりたるころ」に書かれている。
そこには清少納言の感動ぶりだけでなく、新参の女房だったので仕事に慣れておらず、おろおろした様子や気恥ずかしさがうかがえる。仕えた頃に初々しいのは当たり前だが、やがて清少納言は堂々とした女房に成長していく。
清少納言は雲の上のような人々に囲まれ、最初は消え入るように顔すら上げられなかったが、いつしか男性とも堂々と積極的に交流を深めていった。定子の周りを華やかにするため、和歌や漢詩を詠むなどし、明るく社交的な一面を見せたのである。
明るく快活で社交的な清少納言は、積極的に物事に取り組むタイプだったのかもしれない。それが彼女の最大の持ち味であって、定子から恩寵を蒙ることになった理由といえよう。
紫式部が彰子に仕えたのは、寛弘2年(1005)あるいはその翌年といわれている(諸説あり)。式部の宮仕えの意識あるいは性格は、積極的で社交的な清少納言とまったく逆だったようである。
紫式部の性格は控えめなもので、自分から積極的に何かを主張することはなかったという。内向的で消極的だったといえよう。それは無知を装うことによって、円滑に宮廷での職務をこなすという理由があった。
紫式部は和歌や漢詩に優れていたが、それを誇示すると周囲との軋轢を生むことを予見していた。『紫式部日記』によると、紫式部は控えめに謙虚にふるまうことで、人々から「生意気で利口ぶった女」だと思われなかったようである。
それゆえ、漢字の「一」ですら知らないふりをし、屏風に書かれた漢詩ですら意味が分からないふりをしたというのである。ただ、清少納言であれ、紫式部であれ、書物に書かれた性格は、その一端を示しているのに過ぎないことに注意すべきだろう。