梨泰院雑踏事故から1ヶ月 "ソウルでのW杯街頭応援" どうやって開催された?
きょう11月29日で梨泰院雑踏事故から1ヶ月となる。
事故後の11月11日から25日まで、2週間を韓国で過ごした。
5日までは国家哀悼期間は過ぎていたものの、その後も事故の影を感じることは多々あった。
朝の通勤時間。ソウル市内の主要地を通る地下鉄2号線の改札やホームにボランティアスタッフが立っている。
日常生活のなかではどうしたって「密集状態」は起きるものだ。筆者自身も若者の集う弘大入口に向かう際に乗ったバス車内がぎゅうぎゅう詰めに近い状態になり、ハッとするということもあった。バスの車内を見て、乗車をあきらめる人もいた。
そういったなかで、日常を取り戻す動きも出ている。
その象徴のひとつが、カタールW杯でのパブリックビューイングだ。韓国語では「街頭応援」という。ソウル市中央部、光化門に2万4000人が集まって行われた。このうち、24日の大会初戦、ウルグアイ戦での開催分を現地取材した。それはどうやって行われたのか。
当初は中止が決定。「時期的に不適切」
「立ち止まらないで下さい」
会場を横切る通路で写真を撮ろうとしたら、警備スタッフに即座に言われた。
人の流れが止まらないように、ということだ。
密集しない、人の流れが交差しない、そうったことに細心の注意が払われていた。
このW杯パブリックビューイング、11月4日に一度中止が決定した。
10月29日の事故から6日後の発表だった。
本来これを主催する予定だった大韓サッカー協会が「社会的雰囲気(梨泰院での事故)を考慮する」と発表。先の2018年ロシア大会では大韓サッカー協会が管理して、これが開催されていた。協会側はソウル市との連名でこう続けた。
「事故発生から1ヶ月も経っていない時期に同じ管内で街頭応援を行うことは国民の感情に合わないと判断した。街頭応援を中止し、遺族と心を痛めている多くの方々の慰労の時間となってほしいという意味を含め、最終決定を下した」
しかし20日、「開催したい」との声が挙がった。
韓国代表サポーター組織「レッドデビル」ソウル支部が意向を表明したのだ。
そもそも02年W杯以降、2014年まで韓国での街頭応援をそれまで開催してきたのはこの組織だった。
なぜサポーター組織がパブリックビューイング開催?
日本で言われる「パブリックビューイング」とはちょっとイメージが違う。「公共性のある機関が運営する公式応援行事」。韓国での「街頭応援」はそういった位置づけだ。
なぜなら1990年以降、韓国ではサッカー代表チームサポーター団体にかなりの「公共性」が付随してきたからだ。日本では90年代以降、サポーターは自らを「ムーブメント」と称してきたのに対し、韓国は「団体」。97年頃からの草創期には「カリスマ会長」の下に、会員が集まった。
しかし奇跡的なベスト4進出を遂げた02年以降、「権力の集中」という現象が起きた。実際に「会長」が政治と近づきすぎ、という問題が起きたのだ。02年末に行われた大統領選挙の際のこと。鄭夢準候補(投票前日に立候補取りやめ)は大韓サッカー協会会長及び02年W杯韓国組織委員長という実績も打ち出し、選挙戦を展開していた。会長がここに「関わりすぎてしまった」。サポーターが組織票を生む、という状況が出来かねないという声が集まり、当時の会長は去った。
以降、韓国代表サポーター「レッドデビル」は代議制を経て、現在は「地方自治」のようなかたちを採る。国内の親善試合では開催地のサポーターが応援を取り仕切る、というシステムとなっている。
体制の変化のなか、大きな役割がこの「街頭応援のサポート」でもあった。自らが応援の主体となるばかりではなく、多くの人達が応援できるよう支援する。スポンサーを集め、場所を借り、運営ボランティアを派遣する。2014年まではそういう役割を果たしてきた。ノウハウの蓄積もあった。
20日に替わって開催すると発表した後、メディア「YTN」に運営委員長が出演し、こう答えた。
――まだまだ開催は不適切。そういう視点もあるのでは、と思うのですが。
「むしろ、私達なりの方式で開催することが国民の慰めとなると考えています。安全に最大限の注意を払い、行います。今年は02年W杯から20周年でもあり、ふたたび国民が集まる機会と場を設けたいです」
こうして主催者が替わった街頭応援。まずは当局の認可を得なければならない。争点はやはり「安全性の確保」だった。
政府の認可はすんなりいったが、ソウル市の審議には一日多くかかった。そして22日夕方に開催地の鍾路区からの認可が降り、開催が決まった。
現場にて。徹底した「人の流れ」の管理
24日の当日、試合開始時間前に現場に出向いた。
地下鉄最寄り駅の改札でから「一列でしっかり並ぶ」という案内が徹底されていた。
会場には最大手通信会社「KT」のロゴが。4日の準備期間だったが、もともとのプランがあったゆえ、会場設営などはスムーズに進んでいるように見えた。
取材時、会場の右端に撮影ポジションを構えた。今度は警察官に言われた。高圧的にならぬように、それでいてテキパキと導線を作れるような口調だ。
「ここで観るなら座って下さい」
その位置では、人の増加に沿って金属製の柵が柔軟に拡大されていった。
その場が密集にならないように気を払われている。そう感じた。
そのほか、メインステージの周辺は一方通行となっていて、警察官が進行を停止していた。
人の流れが交わらないように、ということだ。
参加者の2万6000人は、予想より3倍多い数だったという。
ハーフタイムにはメインステージで女性のMCが「帰りの交通機関」の説明を盛んに行っていた。近くには地下鉄駅が2つと大型のバス停が1つある。これらにどう移動していくのかの案内だ。
試合終了の瞬間。スコアレスドローの結果に淡々とした雰囲気のなかでイベントは終了した。
即座に鉄製の柵が撤廃され、一気に人が動いた。「かなり広い出口」の状態になり、密閉された状態が出来ないように配慮されていた。
また最寄りの地下鉄5号線光化門駅は会場すぐ近くの2つの入口が封鎖となっていた。人の流れが詰まらないように、という点が本当に徹底されていたのだ。筆者自身もまったく混乱はなく、人混みすらなく、最寄りのバス停にたどり着けた。
メディアも多く取材に訪れており、20代の女性がこう答えていた。
「あの惨事があり、今日来るかどうか非常に多く悩みました。今日は私たちもすごく気をつけたし、会場側の安全対策も万全で、危険を感じることはありませんでした」
この日の開催に際し、41人の警察官、8つの機動隊、陸軍特攻隊620人、そしてレッドデビルから300人の運営ボランティアが投入され、開催を見守ったという。