【九州三国志】島津の捨て奸、その退却に宿る覚悟!一筋の背を見せぬ武士の心
戦国大名・島津家が誇る戦術「捨て奸(すてがまり)」は、その名の通り捨て身の覚悟を持った戦法であり、命を賭して退却の背を守る兵たちによって成り立つものでした。
この戦術が最も知られるのは、関ヶ原の戦いにおける「島津の退き口」であり、敵中突破という究極の戦場で輝きを放った武士道の美学です。
捨て奸は、退却時に後衛を務める兵が少人数で足止めを行い、追撃してくる敵の動きを食い止める戦法です。
その性質上、後衛の兵は自らの命を犠牲にすることを前提とし、文字通り「捨て駒」として残されます。
しかし、この「捨て駒」という言葉が暗示するような冷酷さは、島津家の捨て奸にはありませんでした。
むしろ、その背後には揺るぎない信頼関係と、家族のように支え合う武士たちの絆があったのです。
関ヶ原の戦いでは、東軍に囲まれ退路を絶たれた島津義弘の軍勢が、この捨て奸を用いて敵中突破を敢行しました。
義弘は少数の兵を率いて敵陣の中心を貫き、東軍の猛追を振り切りましたが、その陰には捨て奸として命を賭して戦う兵たちの献身がありました。
家臣の長寿院盛淳や義弘の甥にあたる豊久が、その命を犠牲にして島津隊を守り抜いた姿は語り草となっています。
捨て奸が生むのは、ただの撤退ではありません。
それは「背を見せぬ退却」という、武士としての誇りを体現するものでした。
戦場を逃げるという行為は、戦国時代においては屈辱と見なされるものでしたが、捨て奸による退却は違います。
踏み止まった者が自らの命を賭けて時間を稼ぐことで、全体の秩序を守り、兵を無事に帰還させる。
それは撤退そのものを勝利の一部と見なし、命をつなぐための戦いだったのです。
また、捨て奸は単なる戦術に留まらず、島津家の精神そのものを象徴しています。
「一人のために皆が戦い、皆のために一人が命を賭ける」という武士の在り方が、捨て奸という行為の中に凝縮されています。
犠牲を払うことで全体を生かすという戦術は、戦場という過酷な現実の中で、戦う者の心に希望と覚悟を与えるものでした。
この戦術の裏には、戦場を共にする武士たちの絆と覚悟があり、島津家の家風とも言うべき誇りが貫かれていました。
命を預け、命を捧げる者たちの心が織り成した捨て奸は、単なる退却戦法ではなく、戦国時代の武士たちが見せた一つの芸術だったのです。