【九州三国志】信念に殉じた島津歳久!九州征伐に抗い、歴史に刻まれた生き様
豊臣秀吉が九州征伐を開始したとき、島津四兄弟の三男・歳久はただ一人、秀吉の力量を認め、「農民から身を興した只者ではない」として和平を唱えました。
しかし、その提案は家中の激論の末に退けられ、島津氏は秀吉軍と戦う道を選びます。
皮肉なことに、歳久は後に徹底抗戦を主張し、島津家の中で最も秀吉に刃を向ける存在となります。
1592年の文禄の役では、病気を理由に出陣を見送りましたが、普段からの反抗的態度もあり、秀吉は歳久に朱印状を与えず、兄弟間の分断を図ろうとします。
それでも島津家の結束は崩れず、歳久も家を離れることはありませんでした。
しかし、歳久が引き起こした一連の事件は避けられない終末を招きます。
兄・義久が決断し、追討軍が祁答院を包囲するに至りました。
追い詰められた歳久はわずか27名の家臣を従え、小舟で脱出を図りますが、追撃を受け、ついに祁答院平松神社付近で切腹を決意しました。
歳久は「島津家安泰のために命を絶つ」と遺書を残し、自身の死を家中の混乱の終息へと捧げました。
歳久の辞世の句「晴蓑(せいさ)めが 魂(たま)のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」は、彼の覚悟と信念を象徴しています。
歳久の死は、その場に居合わせた追討軍にも深い悲しみをもたらしました。
彼の生き様と最期に家臣や地元の住民たちは深く心を動かされ、祁答院には歳久を祀る神社がいくつも建てられました。
特に旧薩摩町中津川の大石神社では、今も「金吾様踊り」が奉納されるなど、地域住民によってその偉業が語り継がれています。
また、西郷隆盛も自身の窮地において歳久の故事を語り、心岳寺に向かって手を合わせるなど、幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。
島津歳久。その信念の強さと不屈の姿勢は、彼を歴史に名を残す存在にしたのです。