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【九州三国志】信念に殉じた島津歳久!九州征伐に抗い、歴史に刻まれた生き様

華盛頓Webライター
credit:pixabay

豊臣秀吉が九州征伐を開始したとき、島津四兄弟の三男・歳久はただ一人、秀吉の力量を認め、「農民から身を興した只者ではない」として和平を唱えました

しかし、その提案は家中の激論の末に退けられ、島津氏は秀吉軍と戦う道を選びます。

皮肉なことに、歳久は後に徹底抗戦を主張し、島津家の中で最も秀吉に刃を向ける存在となります。

1592年の文禄の役では、病気を理由に出陣を見送りましたが、普段からの反抗的態度もあり、秀吉は歳久に朱印状を与えず、兄弟間の分断を図ろうとします

それでも島津家の結束は崩れず、歳久も家を離れることはありませんでした。

しかし、歳久が引き起こした一連の事件は避けられない終末を招きます

兄・義久が決断し、追討軍が祁答院を包囲するに至りました。

追い詰められた歳久はわずか27名の家臣を従え、小舟で脱出を図りますが、追撃を受け、ついに祁答院平松神社付近で切腹を決意しました

歳久は「島津家安泰のために命を絶つ」と遺書を残し、自身の死を家中の混乱の終息へと捧げました

歳久の辞世の句「晴蓑(せいさ)めが 魂(たま)のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」は、彼の覚悟と信念を象徴しています。

歳久の死は、その場に居合わせた追討軍にも深い悲しみをもたらしました

彼の生き様と最期に家臣や地元の住民たちは深く心を動かされ、祁答院には歳久を祀る神社がいくつも建てられました。

特に旧薩摩町中津川の大石神社では、今も「金吾様踊り」が奉納されるなど、地域住民によってその偉業が語り継がれています。

また、西郷隆盛も自身の窮地において歳久の故事を語り、心岳寺に向かって手を合わせるなど、幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。

島津歳久。その信念の強さと不屈の姿勢は、彼を歴史に名を残す存在にしたのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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