【九州三国志】島津家久、九州を駆ける!若き智勇と共に、波乱の生涯を歩む
天文16年(1547年)、島津貴久の四男として生まれた家久は、幼少期からその軍才を認められ、祖父・忠良に「軍法戦術に妙を得たり」と評されるほどの逸材でした。
初陣は永禄4年(1561年)、肝付氏との廻坂の合戦で、わずか15歳にして敵将・工藤隠岐守を討ち取る勇猛ぶりを見せたのです。
以後も巧妙な戦術と果敢な行動で頭角を現し、永禄12年(1569年)の大口城攻めでは、巧みに伏兵を配して敵兵を誘い込み、首級136を挙げる戦功を立てました。
天正3年(1575年)、島津氏の三州平定を感謝するため伊勢神宮に参詣し、上洛の途上で多くの文化人や武将と交流しました。
この際に記した『中書家久公御上洛日記』には、織田信長の大軍を目にした感想や坂本城の堅牢さに感銘を受けた様子が記されています。
堺の商人や公家との交流を通じて文化的素養を深めつつ、戦略眼も磨いた家久は、まさに知勇兼備の将として成長していきます。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、肥前の龍造寺隆信率いる大軍に対し、釣り野伏せの戦法で見事な勝利を収めました。
この戦いで龍造寺隆信を討ち取り、九州における島津氏の優位を決定づけました。
この功績によって初めて知行地を得た家久は、日向国佐土原城代となり、さらなる活躍を期待される存在となります。
しかし九州平定を目指す豊臣秀吉の勢力は島津氏にも迫ります。
家久は豊臣軍の先発隊を迎え撃つべく戸次川の戦いに挑み、激戦の末に長宗我部信親らを討ち取る大勝利を収めました。
この戦いでの島津軍の奮戦は、秀吉軍の九州制圧を一時的に遅らせる大きな意味を持ちましたが、圧倒的な大軍を前に島津氏は最終的に降伏を余儀なくされます。
家久は降伏の交渉を進める中で、秀吉方の豊臣秀長軍と単独講和を結びます。
しかしその直後、天正15年(1587年)、佐土原城で急死しました。享年41。
その死因については病死説、毒殺説、戦傷悪化説など諸説ありますが、いまだ定かではありません。
九州の戦乱の中で華々しい戦功を挙げた家久は、短い生涯の中で島津氏の躍進に大きく貢献しました。
彼の生き様は、智勇兼備の武将として今なお語り継がれています。