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【九州三国志】家久、その才覚と複雑な立場!兄弟の中で輝きつつも、影を背負った男

華盛頓Webライター
credit:pixabay

島津家久は、勇猛な武将として名を馳せた人物です

ルイス・フロイスも彼を「きわめて優秀なカピタン」と評し、沖田畷の戦いではその才覚を発揮しました。

しかし、彼の生涯は単なる武勇だけでは語り尽くせない複雑さに満ちています。

教養面では上洛時に明智光秀に茶を勧められ、「茶湯の事不案内」として白湯を所望したエピソードが記録されています。

一方で、戦場では非常に礼節を重んじ、戸次川の戦い後には長宗我部元親に弔意を示し、戦場の非情さを理解しつつも紳士的な姿勢を貫きました

このような振る舞いが、彼の人柄をより際立たせています。

家久は正室ではなく側室の子として生まれ、母が高貴な身分ではなかったことから、幼少期には兄たちとの間に微妙な距離がありました

しかし、兄・義久の「学問と徳を磨けば人はその境遇を超えられる」という言葉に発奮し、武芸と学問に励みました。

その結果、数年のうちに文武ともに優れた才能を発揮し、兄弟の中でも一目置かれる存在となったのです。

一方で、母の違いによる微妙な立場は、兄弟間の軋轢を生むこともありました

家久の戦功を義弘が妬んだとの記述が『樺山紹劔自記』に残されていることからも、彼の才能が時に兄弟関係を複雑にしていた様子がうかがえます。

それでも彼は謙虚さを忘れることなく、自身の立場を全うしました。

家久の家族はまた興味深い系譜を持っています。

息子の豊久は関ヶ原の戦いで殿軍を務め討死、次女は佐多久慶に、三女は相良頼安に嫁ぎ、島津一族の絆を深める役割を果たしました。

後に甥の島津忠恒が「家久」を名乗ったことは、家久の名が島津家の中で大きな影響力を持っていたことを物語っています。

家久の生涯は、ただの武将のそれではなく、彼の置かれた複雑な立場と、それを乗り越えた努力と才能、そして人柄が織り成す、まさに戦国時代を映し出す鏡のようなものでした。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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