【九州三国志】智計に優れた島津歳久!祁答院の地で結んだ主従の信頼
島津四兄弟の三男として知られる歳久は、若年より祖父・忠良や父・貴久、兄たちと共に数々の合戦で活躍しました。
祖父から「始終の利害を察する智計に並ぶ者なし」と評された彼は、智勇に優れた戦国武将でした。
17歳で初陣を飾ったのは天文23年(1554年)の岩剣城攻め。
三方を断崖に囲まれたこの天然の要塞を落とし、歳久の名が初めて戦場に響いたのです。
しかし、翌年の蒲生合戦では敗北を喫し、重傷を負いながらも命からがら戦場を脱出。
若き日の歳久は、苦境を乗り越える粘り強さと、仲間との絆の重要性を体得しました。
後に永禄5年(1562年)には、北原氏旧臣の討伐を成功させ、横川城を陥落させるなど、その武勲を重ねていきます。
この頃より吉田城主となり、鹿児島市吉田一帯を18年にわたり統治。
堅実な領国経営と戦場での冷静な采配により、領民や家臣の信頼を深めていきました。
永禄9年(1566年)、長らく島津家に抗していた祁答院良重が暗殺され、翌元亀元年(1570年)には渋谷一族が次々と帰順。
祁答院地方の平定が成り、この地を託された歳久は虎居城(現・さつま町宮之城)に入りました。
天正8年(1580年)、1万8千石を加増され、祁答院虎居城を拠点に三州統一や九州制圧を支え、軍事と領地経営の両面で重要な役割を果たしました。
彼の治世は温厚でありながらも確実で、直属の祁答院衆との信頼は厚く、彼が自害に追い込まれた際には3000人もの家臣が虎居城に籠城して抗戦したと言われます。
その結束の強さは、歳久が家臣に寄り添い続けた証でもあります。
歳久が築いた絆と知略は、島津家の勢力拡大における重要な柱となったのです。