徳川家康が言ってはいけなかった、「信長を殺す」というセリフ
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、ラストのシーンで徳川家康が「信長を殺す」と言っていた。これは一体どういうことなのか、考えてみることにしよう。
今回は天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡し、家康が軍功によって駿河を拝領することになった。
家康は「今川氏真に駿河の支配を任せたい」と信長に申し出るが、一笑に付されてしまう。おまけに家康は、心なしか元気がない。
家康は降参した敵を許さず、徹底的に殲滅したものの、最後の花は織田信忠(信長の子)に持たせた。これには家臣も不満で、家康に不信感を募らせることになった。
おまけに、富士遊覧では信長のもてなしに動員され、家康は信長の前で「海老すくい」なる踊りを披露するありさまだった。
家康が「今川氏真に駿河の支配を任せたい」と信長に申し出たことは、普通に考えるとあり得ない。
一方、家康が領内で信長をもてなしたことは、『信長公記』に書かれているので、それ自体は誤りではない。ただし、信長が風呂を嫌ったとか、家康が信長の前で「海老すくい」を踊ったなどは創作だろう。
改めてドラマを振り返ってみると、瀬名と松平信康は「慈愛の国」を作ろうとし、武田勝頼に協力を求めた。しかし、勝頼はそれが戯言とであると無視し、陰謀は信長に伝わった。
結果、信長は家康に2人の処分を任せた。家康は瀬名と信康を逃がそうとしたにもかかわらず、2人は自ら死を選んだ。
以上の点は、最近の説から大きく外れる。ドラマの家康は自分自身の不甲斐なさに、何かと考えることになったのだろう。
そして、これまでのような頼りない家康ではなく、どことなく影があり、本心を信長に悟られぬようにした節がある。つまり、心の中では信長を憎んでいたのである。
そこで、家臣は不審に思い、家康の真意を質したところ、「信長を殺す」と衝撃の発言をしたのである。
むろん、家康が「信長を殺す」と発言した確かな記録はない。実際の家康は、武田勝頼を討ったことを心から喜び、信長が安土(滋賀県近江八幡市)に帰陣する道中でできる限りのもてなしをした。
近年の研究によると、瀬名と信康が処分されたあとも、家康と信長の関係は良好だったと言われている。家康が恨みに思っていたとか、信長が家康を討って家康領に攻め込もうとしたなどは、虚説とされている。こちら。
ここまでドラマが通説から外れるといかがなものかと思うが、視聴者のみなさんはどうお考えなのだろうか。