Yahoo!ニュース

ローレンス・アーチャー、フィル・ライノットとの絆を語る【後編】

山崎智之音楽ライター
Laurence & Phil courtesy Laurence Archer

伝説のハードロック・グループ、グランド・スラムのギタリスト、ローレンス・アーチャーへのインタビュー、全2回の後編。

前編記事では最新アルバム『ウィール・オブ・フォーチュン〜運命のダーツ』とデビュー作の新装盤『ヒット・ザ・グラウンド〜リヴィジテッド』(2019)について語ってもらったが、今回はシン・リジィのフィル・ライノットとの出会いと別れ、UFOでの活動、イギリスのヘヴィ・メタル・ブーム(N.W.O.B.H.M.)などについて訊いた。

Grand Slam『Wheel Of Fortune ウィール・オブ・フォーチュン~運命のダーツ~ 』(Rubicon Music/現在発売中)
Grand Slam『Wheel Of Fortune ウィール・オブ・フォーチュン~運命のダーツ~ 』(Rubicon Music/現在発売中)

<フィル・ライノットは年の離れた兄貴みたいに俺の面倒を見てくれた>

●フィル・ライノットとの出会いはいつ、どのような形でしたか?

1977年かな、当時住んでいたブリストルの“コルストン・ホール”でシン・リジィのライヴを見たんだ。それが始まりだった。それから2年ちょっと後、スタンピードがサクソンの『ホイールズ・オブ・スティール』イギリス・ツアーでオープニング・アクトを務めたんだ。俺は19歳ぐらいだった。その後、数ヶ月のオフがあって、最初の結婚をしたんだけど、ある日ジミー・ベインから電話があって、ワイルド・ホーシズに誘われたんだ。それで自分の結婚式を途中で抜け出して、ブリストルからロンドンにオーディションを受けに行ったんだよ。フィルと初めて会ったのはその頃だった。ワイルド・ホーシズのマネージメントをやっていたクリス・モリスンとクリス・オドンネルがシン・リジィも手がけていたんだ。フィルとはそれから何度か会って、彼がワイルド・ホーシズのステージに上がってジャムをやったこともあった。シン・リジィが『反逆者』(1982)をレコーディングしているスタジオで3、4時間プレイしたこともあったよ。これは近いうちにバンドに誘われるな...という予感はあった。でも当時ワイルド・ホーシズでやっていたし、スタンピードで1982年の“レディング・フェスティバル”に出演して、“ポリドール”からのアルバムに取りかかるところだった。それで彼らのスタジオから足が遠のいて、彼らはジョン・サイクスを加えることになったんだ。シン・リジィは1983年に解散して、フィルは当初サイクスとやっていたけどホワイトスネイクに彼を引き抜かれて、それで俺に声をかけてきたんだと思う。

●ジミー・ベインとはどのように知り合ったのですか?

ロンドンの“マーキー・クラブ”に出入りしていると、いろんな人と知り合うんだ。ジミーもそうだった。彼はトウィッケナム、俺はテディントンと、比較的近所に住んでいたこともあった。当時はミュージシャンがたくさん住んでいて、一緒に飲んだりして交流していたんだよ。

●古くからのシン・リジィのファンとして、『サンダー・アンド・ライトニング』(1983)のヘヴィ・メタリックなサウンドを聴いてどう思いましたか?

あのアルバムがけっこうな数のファンから批判されたことは知っているよ。バンドの繊細な部分が失われたと言われたんだ。それはもちろんジョン・サイクスの影響が強かったと思う。彼はタイガース・オブ・パンタンでストレートなヘヴィ・メタルをやっていたしね。俺はジョンのギターは好きだったし、シン・リジィの音楽性に強烈な一撃を食らわせたと思う。彼ともロンドンのシーンで顔見知りだったよ。俺自身はヘヴィなロックも好きだったけど、シン・リジィのメロディと詩情が好きだったし、ちょっと残念でもあった。スタンピードもイギリスのヘヴィ・メタル・ブームのおもちゃ箱に放り込まれたけど、“ポリドール”から最初に出したシングル「デイズ・オブ・ワイン・アンド・ローゼズ」(1982)なんてすごくキャッチーだった。その後のアルバム『ハリケーン・タウン』(1983)ではよりハードなアプローチを取ったけどね。1982年、ゲイリー・ムーアとツアーした頃の話だよ。“ポリドール”はスタンピードによりポップな音楽をやらせたかったんだ。

●グランド・スラムは1984年、短期の活動で解散してしまいましたが、何がうまく行かなかったのですか?

結局フィルがドラッグの問題を抱えていたことが業界に知れ渡って、どのレコード会社も手を出そうとしなかった。「フィルはもう終わった」みたいなムードがあったんだ。実際はグランド・スラムは良い曲を書いていたし、フィルもしっかり歌っていた。何回かライヴが中止になったことはあったけど、すごくエキサイティングで、大勢のファンがいたんだ。根気よくライヴ活動を続ければ、事態は好転していたかも知れないよ。

●グランド・スラムが解散して、フィルは1985年にソロ・アルバムに着手しましたが、あなたはどの程度関わっていましたか?

アメリカでのヒューイ・ルイスとのセッションには同行したし、イギリスに戻ってからもリッチモンドのフィル宅で一緒に作業をしたんだ。ただ彼はさまざまなミュージシャンと実験を行おうとしていたし、徐々に体調も悪くなってきた。結局彼が“ポリドール”とのソロ契約を獲得したのは「キャント・ゲッタウェイ」「ナインティーン」など、俺と書いた曲によるものだったんだ。フィルとは友人だったし、ソロで成功して欲しかったけど、マネージメントが俺の存在をなかったものにしようとする姿勢は正直気に入らなかったね。それでフィルのソロ・プロジェクトとは距離を置いて、自分のソロ・アルバム『L.A.』に着手した。その頃、ミート・ローフのバンドに誘われたりもしたんだ。ただ、俺が新たに契約したマネージメントが膨大なギャラを要求したこと、それからリハーサルのために数ヶ月シンシナティに滞在しなければならないなど条件が厳しくて、実現しなかった。俺はそれよりもいろんな新しいことにチャレンジしたかったんだ。

●1986年1月4日にフィルが亡くなったことは、どのようにして知ったのですか?

1985年のクリスマス、フィルのお母さんのフィロミナと元奥さんのキャロラインがリッチモンドのフィル宅を訪れていたんだ。そこにジミー・ベインも招かれたけど、家にいるはずのフィルがドアベルに応えなかった。フィロミナとキャロラインはクリスマスのショッピングに出かけたんだろうけど、フィルが出てこないのはおかしいと、ブライアン・ロバートソンと俺に電話してきた。俺が到着した頃には既に医者が来ていて、フィルは自宅で療養することになった。そこから体調が悪化していったんだ。年が明けて、キャロラインがフィルを病院に連れていったけど、そのまま亡くなってしまった。フィルは年の離れた兄貴みたいに、俺の面倒を見てくれた。悪いものに近づかないように目を光らせていたんだ。彼が亡くなって本当に悲しかったし、ショックだったよ。

●1980年代中盤、ミート・ローフから誘いがあったとのことですが、他のバンドから参加要請などはありませんでしたか?

俺とマーク・スタンウェイのコンビでオジー・オズボーンとやる話があったけど、実現しなかった。あとサクソンと何回かジャムをやった。彼らが俺を加入させたかったのか、今となっては判らないけどね。サクソンの音楽にはクールなリード・ギターが合っていると思う。(ダイアモンド・ヘッドの)ブライアン・タトラーは彼らのツアー・メンバーだけど、素晴らしい仕事をしているよ。

●日本のシンガー飯島真理のアルバム『KIMONO STEREO』(1985)にセッション参加したときのことを覚えていますか?2曲に参加、「3つのルール」ではリード・ギターも弾いています。

...うーん、当時いくつかやったセッションのひとつだと思うけど、人生いろいろあった時期だし、記憶にない。

●UFOでアルバム『暴発寸前!!』を発表、1992年6月には来日公演を行いましたが、その後どんな活動をしていたのですか?

UFOのジャパン・ツアーの直後にロシアを回ったんだ。でも俺は自分のUFOでのポジションに疑問を持っていた。それで脱退することにしたんだ。それからメディシン・ヘッドでしばらくやったけど、しばらく音楽から距離を置くことにした。音楽業界が良くない状態で、メジャー・レーベルがロック・バンドと契約しなかったり...10年間ぐらい別のことをやっていたよ。バイクのレースに出場したり、映画の美術担当をやったりね。そのあいだアコースティック・ギターをいじることはあったけど、ライヴやレコーディングはしていなかった。

●スタンピードの再結成はどのように実現したのですか?

スタンピード時代のアルバムが再発されることになって(2009年、“ロック・キャンディ・レコーズ”から)、ロンドンなどで数回ショーケース・ライヴをやったんだ。ヨーロッパの野外フェスにいくつも出演して、すごく盛り上がった。アルバム『A Sudden Impulse』(2011)を作ったりして、楽しかったよ。その後、元UFOのダニー・ペイロネルから誘われて、UFOの曲をプレイするプロジェクト“X-UFO”をやった(2011年)。そのときベーシストのロッキー・ニュートンと知り合ったんだ。彼はマイケル・シェンカーとやったことがあって、今グランド・スラムでベースを弾いているよ。

●映画の美術担当をやっていたというのは、どんな作品に関わっていたのですか?

リッキー・ジャーヴェイスが出ていたTVシリーズ『エキストラ:スターに近づけ!』(2005 – 2007)、それから『奇術探偵ジョナサン・クリーク』(2009 - 2014)『ミステリーINパラダイス』(2019)で小道具担当をしたり...“パインウッド・スタジオ”で社員として働いていたこともあるんだ。自分の作業場もあった。『スター・ウォーズ』でグリーン・スクリーンの設置なんかもやって、その前で俳優がライトセイバーでバトルをした。

●『スター・ウォーズ』のどの作品ですか?クレジットはされていますか?

他のプロジェクトと並行したけど、何本かの最終段階でセカンド・ユニットの裏方仕事をしているよ。クレジットはされているか判らない。インターネット・ムービー・データベース(IMDB)に自分の項目もあるんだ。インディペンデント系の作品にもいくつも関わっているよ。

(IMDBのエントリーはhttps://www.imdb.com/name/nm1521424/

Laurence, Phil and Huey Lewis / courtesy Laurence Archer
Laurence, Phil and Huey Lewis / courtesy Laurence Archer

<ゲイリー・ムーアは愛すべき人だったけど、人と打ち解けるのは得意ではなかった>

●あなたとゲイリー・ムーアとの関係はどんなものでしたか?

1970年代のコロシアムIIの頃からファンだったんだ。ソロ・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978)からも影響を受けて、ギターの練習に励んだよ。1982年にスタンピードがゲイリーのイギリス・ツアーのオープニング・アクトを務めてから、誰かのライヴのバックステージや雑誌のイベントで顔を合わせれば話すようになった。一緒にアル・ディ・メオラを見に行ったこともあったよ。彼はいつも俺のプレイを褒めてくれて、いつも緊張したな。ゲイリーは愛すべき人だったけど、人と打ち解けるのは得意ではなかったようだ。だから見知らぬジャーナリストとか、彼をそっけない人間だと思われたりもした。決して社交的ではなかったけど、俺には良くしてくれたし、彼と話すのはいつだって楽しかったね。ゲイリーとのツアーで、バンドのベーシストだったニール・マーレイとは、後に共演することが出来たんだ。“スウェーデン・ロック・フェスティバル”でグランド・スラムの曲をプレイしたとき(2016年)、それからキングダム・オブ・マッドネスでも一緒にやった(2019年)。ニールとプレイするのはスリルを感じたよ。

●スタンピードとゲイリー・ムーアは共に1982年の“レディング・フェスティバル”に出演しましたが、このイベントはイギリスのヘヴィ・メタル・ブーム(N.W.O.B.H.M.)のピークだったとも言われます。スタンピードはそんな中でどのような意識を持っていましたか?

何となく、そういうムーヴメントが起こっていたことは認識していた。だからこそメジャーの“ポリドール”がスタンピードと契約したんだろうしね。でも正直、あまり気にしていなかったよ。トレンドに便乗しようとも考えなかったし、他のバンドもあまり知らなかった。サクソンとは一緒にツアーしたけど、その程度だったね。...ブームの後、スタンピードが続かなかったのは、“ポリドール”の担当者がヘヴィ・ペッティンと契約して、彼らをプッシュするようになったこともあった。レコードのセールスはまだスタンピードの方が良かったと思うけど、彼らのためにクイーンのブライアン・メイをゲスト参加させたり、予算も彼らに割くようになった。俺たちは棚の上に放置されて、次のアルバムの前金が入ってくるのを待っていた。そんなときにフィル・ライノットから声をかけられたんだ。あのままスタンピードを続けていたらどうなっていただろう?と思うこともあるけど、フィルの新バンドでやるという最大のチャンスを逃すわけにはいかなかったんだ。

●スタンピードやその前身バンドのロートレックのシンガーだったリューベン・アーチャーとは連絡を取っていますか?

もちろん!彼は俺の母親と結婚したんだ。義父にあたる関係で、家族だし、仲良くやっているよ。

●彼は『A Rock’n’Rollercoaster Ride』『And Here’s Another Thing – Reuben Archer’s Rock’n’Rollercoaster Ride Journeys On』と2冊自伝を出していますが、読みましたか?

いや、送ってくれと頼んでいるんだけど、身内に読まれるのが照れくさいらしいんだ。ステージで何千人もの前で歌っているのにね(苦笑)。リューベンは最近はブルース・プロジェクトを組んで歌っているよ。

Laurence in the 1980s / courtesy Laurence Archer
Laurence in the 1980s / courtesy Laurence Archer

●グランド・スラムの未発表音源集『Slam Anthems』について、正しく作曲クレジットがされておらず、印税も支払われていないとステートメントを出していましたが、問題は解決しましたか?

マーク・スタンウェイがグランド・スラムの曲を書いたように主張しているのは事実ではないんだ。彼はロック・バンドのキーボード奏者であって、セッション・プレイヤーだ。マグナムに45年在籍していながら、1曲だって書いたことがないし、ソロ・アルバムも出したことがない。生前のフィルがレコーディングしたテープを持ち去って、いくつものレーベルからバラ売りしたときに「自分が書いた」と言い出したんだよ。フィルやロビー・ブレナンは亡くなってしまったから、それを否定することが出来ない。もう1人のギタリストだったドイシュ・ネイグルはどこに行ったか、生きているのかも不明だ。俺が言わないと、彼の嘘がすべて事実だということになってしまうんだよ。

●マークがグランド・スラムのデモやライヴ音源を“ズーム・クラブ”などから出し始めたのは2002年で、彼が自分の名前をクレジットしていることはあなたもご存じだったと思います。それなのにずっと後、『ヒット・ザ・グラウンド』の初期段階で迎え入れたり、キングダム・オブ・マッドネスでも共演するなど、彼と活動を共にし続けたのは何故でしょうか?

グランド・スラムの名前を復活させるにあたって、当時のバンドのメンバーだったマークに声をかけるのがスジだと思ったんだ。彼とはスタンピードの『ハリケーン・タウン』(1983)にサポートで参加してもらって以来の仲だ。2016年に“スウェーデン・ロック”フェスでグランド・スラムの曲をプレイしたときも一緒だった。だから、いつかそんなやり方を改めてくれると信じてきたんだ。でも当時の音源をアメリカのレコード会社(“クレオパトラ・レコーズ”)に売り渡して小遣い稼ぎをしようとするのを見て、さすがに事実を公にしなければならないと思ったんだ。

●マークはグランド・スラムの『ヒット・ザ・グラウンド』で数曲を共作しながら、クレジットされていないと話していましたが…。

彼は『ヒット・ザ・グラウンド』の曲作りには一切関わっていない。アルバムの曲はすべて俺が書いて、アレンジまでしたんだ。俺が自分の時間と金と労力をかけて作ったものを、彼がタダでくすねようとする姿勢は間違っている。何年も前、マークが連絡してきて、グランド・スラムのデモをリリースしても良いか訊いてきたことがあったんだ。出すに足る品質のもので、きちんとリマスタリングなどして、権利関係をクリアするならば構わないと答えたら、連絡が途絶えた。“ズーム・クラブ”のCDが出ていることを知ったのはダブリンでフィルへのトリビュート・コンサート“ヴァイブ・フォー・フィロ”に出演したときだった(2003年)。ショーをやった後、大勢のファンからそれらのCDにサインして欲しいと頼まれたよ。「ローレンス・アーチャー:俺のギャラは?」とサインしたのを覚えているよ(苦笑)。裏切られた気分で、悲しかったね。

(マーク・スタンウェイの主張はこちら → https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/fef9398ea2a0abc424d88989bac88d789f8640f6

●今後の活動予定を教えて下さい。

詳しいことはまだ明かさないでおくけど、夏から秋にかけてスペシャル・リリースを出す予定なんだ。楽しみにして欲しいね。『ウィール・オブ・フォーチュン』からは3本ミュージック・ビデオを作るつもりだし、YouTubeで見られるよ。スウェーデンやアイルランドのツアー、ヨーロッパの夏フェスにも出演して、ライヴも積極的にやっていく。日本でのCDのセールスが良ければ、ぜひツアーで行きたいね。UFOで行ってからもう30年が経つし、グランド・スラムの音楽とライヴ・パフォーマンスは強力でエキサイティングだから、日本の音楽ファンはきっと楽しめると確信している。ベースのロッキーは何年か前(2017年)にライオンハートで日本に行って、最高に盛り上がったと言っていた。ドラマーのベンジー・リードはアメリカ出身で、プレイング・マンティスでもプレイしたことがある。まさに“パワーハウス”なバンドだよ。

●あなたはワイルド・ホーシズやUFOなど、しばしばドラマーのクライヴ・エドワーズと共演してきましたが、彼はポップ・アーティストのザイン・グリフとも活動しています。ザインとは面識がありますか?

ああ、クライヴを通じて会ったことがあるよ。もう何年も前だし、彼の音楽は聴いたことがないけどね。彼はマネージメントが同じだったか何かの繋がりで、一緒のリハーサル・スタジオを使っていたんだ。フィルと「イエロー・パール」を共作したウルトラヴォックスのミッジ・ユーアとも知り合った。意外と狭い世界だったんだよ。

(ザイン・グリフへのインタビューはこちら→https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/d2dce47cae976aab326bbcc0ede9d6c7b46926f9

【アルバム紹介】
グランド・スラム
『ウィール・オブ・フォーチュン』
『ヒット・ザ・グラウンド〜リヴァイズド』
ルビコン・ミュージック
http://rubicon-music.com/

【バンド公式サイト】
https://grandslamrocks.com

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

山崎智之の最近の記事