朝日新聞の誤報で大騒ぎ。他人の目が気になりすぎる日本人の僕たちが取るべき方策
朝日新聞の誤報への批判が止まらない、ように見える。週刊誌の発売日が重なる木曜日の朝刊を買うと、広告面は「朝日の自壊」「謝罪が甘い!!!」「朝日新聞の落日」といった見出しが目立つ。「声」の欄は朝日新聞に寄せられた読者の批判文を特集している。
最も目を引いたのは、国家基本問題研究所という団体が掲載した意見広告だ。読んでいると、騒ぎの核心が見えてくる。日本の保守的なおじさんたちの琴線に触れたのは、従軍慰安婦に関する偽証言を32年後に誤報だと認めて取り消し、批判を受けた末に読者に謝罪をした点にあるようだ。
意見広告によれば、迷惑をこうむったのは朝日新聞の読者に留まらないらしい。「この間、日本はどれだけ辱めを受けてきたでしょうか」と訴えかけている。「従軍慰安婦は強制連行されたという誤解」が国際社会に広まってしまったことが許せないようだ。「徹底した反論が必要な今」、「日本の名誉を守る首相直轄の対策本部」を置くべきだと主張している。
38年間この国で生きてきた中年の僕は、この意見広告に深く共感する。主張している内容に、ではない。「国際社会」というあいまいな他人の視線が異常に気になり、「どう見られているか」が自分の名誉を規定してしまう、という点に「オレもそうだよな」と感じてしまうのだ。
だからといって、「新聞記事の一つや二つで日本の名誉を傷つけられたりはしない」と開き直ることもできない。他人の評価が気になって仕方ないからだ。ならば、徹底して「日本の名誉を守る」方策を取るしかない。どうすべきか。
70年前までの日本が隣国に対して侵略を行ったのは歴史的事実だ。欧米諸国はもっと派手に植民地化したとか、結果としてアジア諸国の発展と独立を促したというのは言い訳に過ぎず、数世代前の日本は比較的強大な軍事力に任せて侵略をしたのである。慰安婦が強制連行だったのか任意だったのかは別として、この「大枠」の事実を知らない成人はさすがにいないだろう。
昔のことをいつまで謝り続けなければいけないのか。侵略されたことを痛みに感じる人が隣国に存在する限りにおいて、だと思う。700年以上前の元寇に関してモンゴル人を恨んで謝罪を求める日本人はもういない。
今回のように「従軍慰安婦は強制連行ではなかった」と主張するのであれば、その前置きとして「侵略したことは本当に申し訳ない。二度とやりません」と断りを入れないと、「この人たちは侵略の事実すら否定するのか?」と知性を疑われかねない。それこそ大事な「国際社会」において「日本の名誉」を傷つける行為だ。
侵略の事実に関しては何度でも謝る一方で、明らかにやっていないことは「それは違います」ときっぱりと言う。相手が領土問題に絡ませてくるようなことがあれば「それとこれとは話が別です」と決然とした態度を示す。そうすれば、「あの国は間違いをきっちり認めて謝って償いもする。だけど、調子に乗って無茶な要求をしても通じない。静かに論理的に断られて、こちらが恥をかくのが落ちだ。日本はしたたかな大人の国だぞ。なめちゃいけない」という評価をもらえるだろう。他人の目が気になりすぎる僕はそんな国の民でありたい。