Yahoo!ニュース

宝塚記念での予想外の大敗。後から分かった「我慢して走っていたんでしょう」という思わぬ敗因とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
2013年のオールカマーを勝利したヴェルデグリーン(JRA提供)

爪が良くなって本格化

 2014年の宝塚記念。

 青息吐息でゴールしたその姿を見て、男は小首を傾げた。

 男の名は三野輪亮。美浦・相沢郁厩舎で持ち乗り調教助手をする彼の担当馬はこのレースで最下位に沈んだ。

 「確かに具合が良いとは思えなかったけど、ここまで負ける馬では……」

 厳しい現実に「ないと思う」と続くであろう言葉をのみ込んだ。

 担当した馬の名はヴェルデグリーン。結果的にこの宝塚記念が現役最後のレースとなってしまった。

画像

 田辺裕信がヴェルデグリーンに初めて跨ったのは13年の1月。この日、中山競馬場の500万条件に出走した同馬は、当初、別の騎手が騎乗を予定していた。しかし、その騎手がレース当日病気により乗れなくなり、急きょ代わりに指名されたのが田辺だった。

 結果、6番人気だったこの馬を勝利に導くと、その後、1000万条件、1600万条件と3連勝してみせた。

 「すごくラッキーでした」

 代打での乗り替わりからの連勝劇に田辺は破顔してそう語ったが、本当の意味で“ラッキー”だったのは、乗ることになったタイミングだったのかもしれない。前出の三野輪は言う。

 「最初に入厩した時から背中の柔らかい良い馬だと感じました。ただ、爪が薄いので走っているうちに潰れてザ石の症状のようになってしまい出世が阻まれました。

 そんな爪が良くなってからポンポンと3連勝できたんです」

ヴェルデグリーンを担当していた三野輪亮持ち乗り調教助手
ヴェルデグリーンを担当していた三野輪亮持ち乗り調教助手

厩舎ゆかりの血統に特別な愛着心

 このヴェルデグリーンに特別な愛着を持っていたのが管理する調教師の相沢だ。母のレディーダービーも、そのまた母のウメノファイバーも彼が育てた馬。ウメノファイバーはG1・オークスを勝っていたが、子供達の成績は今一つ。指揮官は彼女について次のように語る。

 「繁殖としては『走らない』とレッテルを貼られてしまった感じでした。それだけにこの血統で走る馬を出したいという強い気持ちがありました」

 レディーダービーの初仔マイレディーも面倒をみたが4戦未勝利のまま掲示板にも乗れずに引退した。

 2番仔がヴェルデグリーンだった。

 「2000メートルの新馬戦を勝ってデビューしたけど、その後は爪を中心に全体的に弱く、なかなか勝てませんでした。

 でも、しっかりしてきたと思ったらいきなり3連勝してくれました」

 勢いに乗って挑んだ新潟大賞典では10着と大敗し、連勝が止まった。しかし“人間、万事塞翁が馬”である。田辺は言う。

 「新潟大賞典を大きく負けたことで、サマー2000の争いをきっぱり諦められました。中途半端に好走していたらシリーズの王者を目指してその後も無理させていたかもしれません」

 田辺の弁でも分かるように、大敗したヴェルデグリーンは結局、夏を休養に充てることにした。復帰初戦は9月22日。中山のG2・オールカマーとなった。

 「削蹄もうまくいって爪は問題なかったけど、G2ですからね。正直、自信はありませんでした」

 三野輪はそう言った。そして相沢は次のように語った。

 「どこまでやれるかな?という想いで観戦しました」

 結果、後方からひとマクりしたヴェルデグリーンは9番人気という低評価をあざ笑うように快勝した。

 「道中は良い手応えに見えたけど、まさかそのまま勝てるとは……」

 三野輪がそう言えば、相沢は感慨深そうな表情で述懐する。

 「レースを見ていて『おぉ!!』と声が出ました。執念でついに重賞を勝てたという感じ。『この血統を何頭も買って応援してくださったオーナーにも少し恩返しできたかな?』と思いました」

 また、「中山はとくに強かった」と語ったのは田辺だ。実際、オールカマーを制した翌年の14年にはAJC杯を優勝。中山で重賞2勝目をマークした。

ヴェルデグリーンを管理していた相沢郁調教師
ヴェルデグリーンを管理していた相沢郁調教師

ひたひたと忍び寄っていた影

 AJC杯を制したヴェルデグリーンだが、続く中山記念では5着に惜敗。そして、ひと息入れた後、G1・宝塚記念に臨んだ。

 当時の様子を相沢は次のように言った。

 「すごく良い状態とは思わなかったけど、具合が悪いようにも感じませんでした」

 担当する三野輪もおおよそ同意見。しかし、「気になる部分もあった」と口を開き、続ける。

 「AJCを勝ってはいたけど、どうも筋肉が戻らない感じがありました」

 宝塚記念から遡ること三走。有馬記念では480キロあった体が、AJCでは4キロ減、宝塚記念ではさらに6キロ減って470キロになっていた。

 「お尻の肉が落ちてしまいました」

 結果、宝塚記念は12頭立ての12着。ブービーから4馬身離される最下位に終わった。

 「ペースも遅かったけど、全く追い上げることもできませんでした」と田辺。

 冒頭で紹介したように「ここまで負ける馬では……」と言い、口を噤んだのが三野輪。

 相沢も異口同音に語った。

 「こんなに負けるとは『どうしたんだろう?』と思いました」

 思わぬ大敗を受け、ヴェルデグリーンは放牧に出された。そして、その放牧先から厩舎に電話が入ったのは1カ月以上経った8月2日のことだった。

 「腹痛を起こしたので緊急手術を行うと連絡がありました」

 翌3日、施術されると、すぐにまた電話がかかってきた。

 「開腹したら、もう手がつけられないくらい広範囲で癌にむしばまれていたそうです」

 8月3日、癌転移による腸閉塞で、ヴェルデグリーンは唐突に逝ってしまった。

 「重賞を2つも勝って、天皇賞、有馬記念、そして宝塚記念にも出させてくれた。思い出深い馬だけに、内科系の病気で死んだと聞いた時は可哀そうに思いました」

 主戦として活躍した田辺はそう言って唇を噛んだ。

 「相沢先生からの電話で聞きました。最後の方でなかなか筋肉がつかなかったのも合点がいくと同時に、可哀そうに感じたし、残念に思えました」

 三野輪はそう言った。

 「ウメノファイバーの血統でやっと重賞を勝ってくれたのに、ショックでした」

 こう言った相沢はさらに続けて語った。

 「宝塚記念で大きく負けた時は『どうしたんだろう?』と思ったけど、きっと我慢して走っていたんでしょうね。気付いてあげられず可哀そうなことをしました」

 あれから4年。宝塚記念が近付くたび、彼のことを思い出す。

画像

(文中敬称略、写真提供=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

平松さとしの最近の記事