○○商の復権だ! 高岡商、初の甲子園2勝で大阪桐蔭に挑む
「苦しい試合を選手がよく粘ってくれました。山田(龍聖投手)は最後の1球が144キロ。つらい時期を乗り越えて、一皮むけた感じです」
高岡商(富山)・吉田真監督はそう切り出した。お隣・長野の佐久長聖に5対4と競り勝ち。初戦は、佐賀商に4対1で勝利している。打撃力を上げよう、という県全体の取り組みで、3月にはNPBの現役時代3度の三冠王に輝いた落合博満氏を招いて講演を開催。高岡商ではもともと、打撃強化のため、冬場に6万スイングを課してきており、さらに、
「打席でまず脱力した上で、鋭くスイングするという落合さんの考え方がはまった選手もいます」(吉田監督)
と、富山県大会では全5試合で二桁得点を記録した。平均得点は12点を上回り、むろん県によって相手のレベルは違うにしても、これは出場56校中トップ。この日の9安打5得点は、その打力が全国でも通じることを証明した。
これで3回戦に進出。夏は過去18回、センバツも5回の出場がある高岡商だが、一大会での2勝は1923年の創部以来、春夏通じて初めてという画期的なことだ。
近年元気のない○○商だが……
そういえばこの大会では、高知商も3回戦進出を決めており、○○商と名のつく高校がベスト16に2校進むのは2012年以来(倉敷商、秋田商、浦添商)だ。
近年の甲子園、商業高校の元気がない。前身が商業高校だったとか、学内に商業コースがあるとかは別として、○○商の最後の優勝は夏は96年の松山商(愛媛)、センバツにいたっては85年の伊野商(高知)までさかのぼるのだ。
100回記念大会なので、ちょっと歴史のウンチクを。甲子園が完成した1924年夏から昭和の戦前まで、中等学校野球(いまの高校野球)では、商業、工業といった実業学校が台頭した。もともと、旧制中学のエリートが中心だった全国中等学校優勝野球大会(いまの全国高等学校野球選手権大会)では、23年の第9回大会まで、すべて旧制中学が優勝していた。だが24年、第1回のセンバツで高松商(香川)が商業学校として初めて優勝すると、その夏も広島商が続いた。昭和に入ると、戦争による中断まで春15回、夏14回の39大会のうち、商業学校の優勝が実に23回を占める。
当時の旧制中学は5年制。小学校を卒業し、さらに上の学校への進学を目ざす13〜17歳の生徒が中心だった。一方実業学校は、進学より実学を重んじ、卒業したら多くはすぐに社会に出る。そのため、小学校から2年制の高等小学校を経て実業学校に進む者も多く、それが5年生になれば20歳近い。年齢制限が厳格ではなかったその時代は、何年か遅れて実業学校に進む者もいた。つまりかつての中学野球では、いまの大学生年齢もいる実業学校と、ほとんどがいまでいう高校生の旧制中学が同じ土俵で対戦していたわけだ。
となると当然、実業学校の分がいい。当時の旧制中学のOBが、後輩に「昔の商業学校には、大学生みたいな選手がごろごろいた。体つきが全然違った」と語るような年齢差があり、さらに実業学校は野球強化に力を入れやすかったため、次第に中学校を圧倒したわけだ。31〜33年夏、史上唯一の3連覇を達成した中京商(現中京大中京・愛知)などがその代表格だろう。
次は大阪桐蔭戦!
ただ、戦後の学制改革によって実業学校が年齢的にも普通科と同等になり、あるいは学校そのものが普通科高校に改組するなど、そのアドバンテージは消えていく。さらに大学進学率の高まりに従い、昭和後期からは名門実業高校の普通科への衣替えも増えてくる。そのため、実業系の高校は徐々に振るわなくなった。時代が進むとその傾向はいっそう顕著になり、かつて強豪だった商業高校でも男子生徒が減少。となると、選手層が薄くなり、チームの戦力が低下するのは自然な成り行きだった。11年のセンバツでは、春夏通じて史上初めて商業高校の出場が途絶え、17年夏、18年春の甲子園でも、○○商と名のつく学校はそれぞれ高岡商と富山商1校のみである。だからこそ、今大会の高岡商、高知商の16強入りは際立つのだ。
高岡商の次戦は、優勝候補の筆頭・大阪桐蔭(北大阪)が相手。「目の前の一戦で精一杯。なにも考えていませんでした」と吉田監督はいうが、その高岡商、87年夏の3回戦では、春夏連覇を果たすことになるPL学園(大阪)に敗れたものの、0対4と善戦している。