「金正日の死」からの教訓 12月17日は「金正日前総書記12周忌」
今日(12月17日)は、金正日(キム・ジョンイル)前総書記が亡くなった日である。父の12周忌を前に金正恩(キム・ジョンウン)総書記は昨日、党・政府・軍幹部らを引き連れ、遺体が「永生の姿で」安置されている錦繍山太陽宮殿を訪れていた。
金前総書記は今から12年前の2011年12月17日、心臓発作を起こし、急死したが、当時、北朝鮮が受けた衝撃は計り知れなかった。その証拠に北朝鮮は17年間政権の座に君臨していた絶対的な権力者の急死を公表するまで2日間も伏せていた。
北朝鮮は死去から2日後の19日に「特別放送」を予告し、名物女性アナウンサー、李春姫(リ・チュニ)氏が喪服姿で登場し、「17日午前8時半に現地視察に向かう途上で、特別列車で急死した」と、金前総書記の死去を涙ながらに伝えたことで世界中に衝撃が走った。中でも韓国にとっては青天霹靂だった。韓国は北朝鮮が報道するまで敵国の指導者の死去をキャッチできなかったからだ。
李明博(イ・ミョンパク)大統領(当時)は政敵が死んでいたとは知らず、京都での日韓首脳会談のため12月17日に訪日し、18日まで日本に滞在していた。北朝鮮が死亡を伝えた19日は李大統領の誕生日であった。李大統領もまた、ハッピーバースデーのパーティどころではなく、情報収集や有事の対応に追われる日となった。
「12月17日」は北朝鮮情報の元締めである韓国の情報機関「国家情報院」(国情院)の情報能力が問われた日でもあった。
「情報院」は頻繁に北朝鮮情報を流すが、肝心要のロイヤルファミリーの情報には限界があることを図らずも露呈させてしまった。盗聴やヒューミント(人的諜報)など情報収集能力の限界を垣間見せてしまった。
このことは、金正恩総書記の子供が何人いるのか、男の子がいるのかどうか、今、表に出ている「ジュエ」と称されている娘が後継者なのか何一つ掴んでいないことからも明らかなように今もって改善されていない。
事前に情報を掴めなかったにもかかわらず、当時「国情院」の元世勲(ウォン・セフン)院長は「金正日専用特別列車は16―17日まで平壌の竜城駅に停車していて動いてなかった」として「16日夜に官邸で死亡したとの説もある」(20日の国会情報委員会で)と答弁していた。
そして、この発言が引き金となり、韓国のメディアは中朝国境筋の情報として「金正日は平壌郊外の別荘で倒れ、死ぬ直前に『水を一杯』と言った」と、信憑性が疑われる情報をここぞとばかり流し始めた。いつものパターンで、怪情報の源は決まって何とか「筋」だった。
韓国のメディアの中には金正日氏が週末に現地指導するのは「異例である」として17日の死亡説に疑問を呈したメディアもあった。これも調べてみれば直ぐにわかることで週末の視察は異例でもなく、頻繁にあった。例えばこの年は10月だけでも、土日に現地指導した回数は5回。11月も3回もあった。2か月だけで8回も現地指導していた。
ちなみに国会情報委員会の場で元院長は「金正日の死をいつどうやって知ったのか」と聞かれると、「テレビを見て知った」と答えていた。出席した議員らが唖然としたのは言うまでもない。
元院長は「15日までは動きを把握していたが、16日以降は把握できなかった」と弁明していたが、15日の動静については北朝鮮が放送を通じて公表していたので、把握できて当然のことだった。野党の議員からは「国情院には莫大な予算を投じているのに何をやっているのか」と、批判の声が上がったのは言うまでもない。
結局のところ、元院長は出席議員らから集中砲火を浴びたため批判の矛先を交わすためこの種の攪乱情報を意図的に流したのではと、当時勘繰られる始末だった。
もちろん、元院長は列車で亡くなった可能性を否定したわけではなかった。「17日の朝にどこかに行こうとして出発前に乗った状態で死亡したのではないかとみている」とも語っていた。
確かに列車が動いてなかったからと言って「列車の中ではない」とは言えなかった。死亡時間が午前8時半ならば官邸から移動して、現地視察に行こうとして出発直前に心臓発作を起こしたことも考えられる。そうだとすれば、列車は発車できるはずもない。
いずれにせよ、北朝鮮情報はどれもこれも裏の取りようのないものばかりだった。検証しようのないものばかりで、まさにメディアにとっては「書き得」だった。
簡単な話が、推測、憶測であっても、それが「説」となり、そしてメディア間でキャッチボールされ、外国に打電されると、既成事実化し、いつの間にか「定説」となってしまう。
北朝鮮問題専門家やジャーナリストにとっては「12月17日」はそうしたことを「教訓」として教えてくれた日でもあった。