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【深掘り「鎌倉殿の13人」】比企尼による源範頼の助命嘆願は史実だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比企尼を演じる草笛光子さん。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の24回目では、源頼朝の弟・範頼がついに殺害されてしまった。範頼に謀反の疑念が掛かった際、比企尼が助命嘆願をしていたが、その辺りを詳しく掘り下げてみよう。

■比企尼とは

 草笛光子さんが演じる比企尼は、生没年不詳。父母の名前も不詳である。比企尼の夫は、比企掃部允である。比企掃部允も生没年が不明なのだから、ともにわからないことが多すぎるのが難である。

 頼朝が伊豆に配流された際、比企尼は夫の比企掃部允とともに武蔵国比企郡に下り、治承4年(1180)に頼朝が挙兵するまで仕送りをして生活を支えた。比企尼は頼朝の乳母だったので、献身的に支えたのだ。なお、乳母は非常に大きな発言権を持っていたことに注意したい。

 比企尼の3人の娘のうち、長女の丹後内侍は惟宗広言との間に子の島津忠久(薩摩島津氏の祖)をもうけ、広言と離縁したのち関東へ下り、安達盛長と再婚した。盛長は、頼朝の流人時代を支えた人物だ。また範頼の妻は、盛長の娘だった。この人間関係は重要である。

 今回の範頼の助命嘆願のシーンでは、盛長が範頼の今後を憂慮して、ほとんど唯一頼朝に意見することができる比企尼と面会させた。比企尼ならば、頼朝をうまく説得できると考えたのだろう。

■比企尼による助命嘆願

 比企尼が頼朝を説得した話は、『尊卑分脈』、『吉見系図』といった系図で確認できるが、事実はやや異なっているようである。この点を確認しておく必要があるだろう。

 2つの系図によると、比企尼が頼朝に面会して助命嘆願したのは、範頼本人ではなく、範頼の2人の子(範圓・源昭)だった。結局、範頼の2人の子は、出家することで許されたという。なお、その子孫は吉見氏になったというが、2人のその後については、詳しいことがわかっていない。

 いずれにしても、比企尼が頼朝に助命嘆願したのかは、たしかな史料がないので、史実か否か不明である。しかも、比企尼は文治3年(1187)9月をもって、史料上から姿を消す。

 頼朝が誕生したのは、久安3年(1147)。仮に、比企尼が若く見積もって20歳で頼朝の乳母になったとしたら、1127年の誕生になる。文治3年(1187)の時点で60歳なのだから、この頃には亡くなっていてもおかしくはない。

■まとめ

 今となっては、比企尼が頼朝に範頼の2人の子の助命嘆願をしたのかは不明である。しかし、比企尼が頼朝の乳母であったこと、盛長の娘であったことを考慮すれば、可能性は無きにしも非ずである。それは、比企尼が存命だったという条件付きである。

 ただし、いくら比企尼とはいえ、範頼の件について、頼朝の決定を翻意させるのは極めて困難だったに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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