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原爆投下にまつわる「俗説」を検証する【広島原爆から76年】

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
長崎原爆投下直後のキノコ雲(提供:The National Archives/ロイター/アフロ)

 76年前の今日、米軍は広島市に人類史上初の核攻撃を行った。にも拘らず、日本における原爆報道量は年を追うごとに減少しているのは極めて遺憾である。事に今年は東京五輪の影響もあってか、原爆にまつわる報道量はずば抜けて少ない。本稿では、76年目の原爆忌を前に、左右のイデオロギーの別を超えて原爆投下にまつわる「俗説」を検証していきたいと思う。少しでも原爆記憶の風化に歯止めをかけたいという想いからだ。

原爆ドーム。旧広島市産業奨励館
原爆ドーム。旧広島市産業奨励館写真:アフロ

1.原爆投下により日本は終戦を決断した→嘘

YAHOO!JAPANの過去拙稿で示した通り、広島・長崎原爆によって日本が連合国への降伏を決断した、という説は原爆投下を正当化させたいアメリカ側の保守的イデオロギーが後背にあり、正しくはない。

 私たちは歴史を後から振り返るので如何に原爆が悲惨かを知っているが、当時の日本政府や軍部にも原爆について正しい知識を持つものはほとんどいなかった。まして原爆による放射線の影響を予期できたものなど皆無に等しかった。日本の降伏を決定づけたのは、原爆ではなくむしろソ連参戦(1945年8月9日)である。日本は当時中立国であったソ連を仲介して連合国と講和を探っていた。そのソ連が参戦したから、日本政府も軍部も万策尽きてポツダム宣言受諾に傾いた。原爆投下は日本降伏の決定打では無かった。

 軍部は、広島市に原爆が投下された直後、陸海軍合同の調査団を空路・広島市に派遣した。猛火のため調査団は広島市中心部に入ることは出来なかったが、翌日以降本格的な調査を開始した。そこでは「白い服を着ていたものは助かった」「防空壕に入っていたものは無傷であった」などの事例から「新型爆弾恐るるに足りず」という結論になり、それが「新型爆弾への対処法」として新聞等に掲載された。「肌の露出を抑えること」「B-29が単独飛行していてもこれを疑い、防空壕に入ること」などと原爆についての対処法が縷々喧伝されたが、残留放射線の影響については全く触れられていなかった。当時の政府も軍部も、原爆被害を軽視していたのである。日本降伏の決定打は、皮肉なことに二発の原爆ではなくソ連対日参戦であった。

2.原爆投下の背景には日本人への人種差別感情があった→嘘

 よく日本の保守派などが「米軍による広島・長崎への原爆投下」には、根強いアメリカ国内の対日人種差別の感情があった、という俗説が喧伝されている。たしかに真珠湾攻撃以降の太平洋戦争中、アメリカ西海岸等に住む日系人は強制収容施設に入れられ、アメリカからして同じ交戦国のドイツ・イタリア系に同様の処置が取られなかったことから、根強い対日差別感情があったことは事実である(―戦後、アメリカ政府は日系アメリカ人に対して本件で公式謝罪した)。しかしそれと原爆投下は全くの別物である。

 アメリカによる原爆製造計画、即ちマンハッタン計画が動き出したのは、ナチスドイツから亡命してきた核物理学者らが、時の大統領ルーズベルトに「ナチの核武装(1930年代後半において、核研究の分野では世界的にナチスが先行していた)」についての危険性を直訴したことに始まる。当時アメリカはドイツとも日本とも戦争状態では無かったが、米英にとってドイツは潜在的な仮想敵であり、ルーズベルトはこれを脅威と感じた。よってマンハッタン計画始動時、原爆の製造は完全にナチスドイツに対抗するためであり、よもやこのとき日本が真珠湾攻撃をするなどとは思っていない。よって「(米軍が)初めから日本に原爆を投下するつもりだった」という説は誤りである。

 事実ルーズベルトは、1944年後半の段階になって、核兵器の完成が順調に進むと、「ドイツに対する複数の核攻撃目標」を軍部と検討した、という会話の記録もある。しかし米軍が危惧した戦術的問題点は、「もし原爆が不発だった時、敵に再利用されないか」という一点である。つまり、未曾有の破壊力を持つ原爆をドイツに投下したとき、もし不発に終わったのならその強大な兵器をみすみす敵に渡すことになり却って脅威である。しかもドイツは当時核開発先進国だったのだから、原爆を分解されて調査されたりしたら元も子もない。

 よって米軍は、核研究では途上国であった日本にその攻撃目標を絞ることになるが、広島型原爆は「絶対に起爆」する砲弾型と呼ばれるウランを用いた核分裂爆弾のため、敵に塩を送る心配はない。長崎に落とした原爆についてはプルトニウムを用いた爆縮型(現代の核兵器のすべてはこの爆縮型で起爆する)と呼ばれる高度なもので、これが慎重になったためにアメリカは所謂「トリニティ実験」で長崎型原爆の信頼性を確かめることにした。つまり広島に投下されたウラン型(砲弾型)の原爆は、不発になることが絶対にない、と判明していたから核実験すらしていないのである。

 とすると、歴史にIFは無いが、1945年8月の段階でナチスドイツが降伏していなければ、まず間違いなく米軍は不発となって敵に再利用される恐れが絶対にない、広島型原爆をドイツに投下していただろう。結局その時点でヒトラーが自殺し、残る枢軸は日本一国となったから二発の原爆を米軍が日本に投下しただけで、人種差別的背景は薄い。そもそも当時のアメリカ政府も米軍も、原爆投下によってどのような「現実的」被害が敵にもたらされるのか、自分自身ですらその凄惨な実態を想定していなかったのである。だからこそマンハッタン計画に携わったアメリカの核研究者は、戦後になって原爆投下を悔やむものが出てきたのである。

3.原爆は落下傘付きで投下された→嘘

 広島原爆の被爆者の証言などにより、米軍による広島市への核攻撃に際して、原爆は白い落下傘付きで投下されたという誤解が広まった。当時の新聞にも小見出しで「落下傘付きで投下」とある。有名な中沢啓二先生の『はだしのゲン』でも、B-29の格納庫から落下される「リトルボーイ」が、傘付きで下降していくさまが描かれているが、これは誤りである。実は落下傘が付いていたのは原爆が正しく起爆したかどうかを、当時米軍が占領中の硫黄島の通信施設に送るためのラジオゾンデ(観測機)であり、原爆自体は自由落下で広島市に投下された。つまり落下傘が見えた段階で、原爆本体はその遥か下を落下していたということになる。

4.広島原爆投下時に空襲警報が解除されていた→正

 1945年8月6日の米軍による核攻撃の際、一旦空襲警報が出たがそのあと解除された、という証言が被爆者からある。これは正しい。なぜこういう事になったのかというと、まず原爆投下に当たっては、原爆を搭載するB-29に先行して、気象観測機が先発していた。これで広島市上空の天候を測り、原爆投下に妥当かどうかを判定し後続機にその情報を伝えることを任されていた。当時米軍機は、たとえ爆撃目標が雲で覆われていても空襲が可能なレーダー技術を持っていたが、原爆投下は特殊任務のため、雲のない晴れ間に於いての目視投下を厳命されていた。よって先発の気象観測機が広島上空に到達した際、日本側がそれを探知して空襲警報を出したのである。

 それに続くエノラゲイは、巧妙に広島市上空から北東方向に一旦は飛び去る。これで空襲警報は解除され、広島市民は防空壕から出てくるからだ。そしてエノラゲイは、広島市北東付近で急旋回して広島市上空に取って返し、原爆を投下する。日本軍当局もこのあわただしいエノラゲイの行動を追尾できなかった。これだけにとどまらず、米軍は原爆投下目標が広島市と決定するや、B-29単独での低空進入を試みた。「単独で行動するB-29は何もしない」という印象を広島市民に与え、油断させるための心理的欺瞞工作である。

 このような結果として、いったん解除された空襲警報により安堵した広島市民は地下から出てきてしまった。その無防備な人々に原爆が投下された。米軍の狙いは一人でも多くの日本人を殺傷するためである。もしこの時点でも空襲警報が出ていたら、広島原爆の被害は多少なりとも軽減されていたであろう。このような巧妙な空襲警報解除を誘発し、一人でも多くの広島市民を地獄の業火で焼き尽くす戦略を周到に準備していた米軍の戦争犯罪は76年たった現在でも消えることは無いのではないか。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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