なぜ彼らはテレビよりSNSを信じるのか~「検索とクリック」という魔物~兵庫県知事選挙から1か月

オールドメディアが敗北したとか、それほどでもないとか、そういう話ではない。衝撃的(?)な兵庫県知事選挙での斎藤元彦知事の再選からちょうど一ヶ月が過ぎた。この間、SNSがいかに斎藤知事の再選に寄与したのか、またその原因や理由が分析されてきた。が、筆者からするとどれもピントがぼけているように感じる。
斎藤知事の再選がSNSの力によるものであるのは事実であり、それを事実上アシストしたNHK党の立花孝志氏による、一部が事実に基づかないとされるフェイク情報や、デマに類似したものを多くの有権者が信じたのは、長年ネット保守や陰謀論者の動静を調査、分析してきた筆者にとっても興味深いものがある。彼らはなぜテレビよりSNSを信じるのか。
・テレビや新聞は受動のメディア、SNSは能動のメディア

結論から言えば、ほとんどの人間にとって、もはやテレビや新聞といった、いわゆる「オールドメディア」は、水や空気のような存在であり、受動的で「受け流す」メディア・インフラになっているからだ。それに対してSNSでは、検索窓での入力や、画面のタッチ、クリックによって、「能動的に自分が選ぶ(選んだ)」という動作が加わることで、一部の人にとってはテレビよりもはるかに信用できるメディアとして機能しているからである。
つまりテレビは「勝手に流れてくるメディア」であり信用に値しない。一方、SNSやネットは「検索とクリック」という行為が、「これは自分で選んだ情報である」とユーザーを錯覚させる。人間は、国籍や年齢の別なく、「自分で選択したもの」に価値を置き、ありがたみを感じる。与えられたものより、自分の意志で選んだものの方が尊いと思う。
これはオールドメディアの伝える報道の方が良質だとか、SNSはそうではないとか、そのような情報の真贋に関することではなく、身体性・身体感覚そのものである。テレビの夜7時のニュースを、数分前から正座して待機する人はまず居ないだろう。テレビは「流れてくるもの」「流すもの」であって、受動のメディアである。
一方、SNSを使ったり、経由したりして得る情報は、ほぼ必ずユーザーが「検索」という行為をし、そして目についた動画タイトルなどを「クリック」するという手順で、当該のコンテンツに行きつく。SNSや動画というコンテンツは、この手間が入ることで、実際のところはともかくとしても、能動のメディアになっている。
人間は、「自分で選んだ」という過程を経て入手した情報に価値を見出し、真実だと感じる身体性を持っていることはすでに述べた。テレビに限らず新聞も、宅配制度が完備されている日本にとっては、「毎朝自動的に届けられるもの」であって、ありがたみは無い。
スマホが国民に皆普及した昨今、「テレビ離れ」「新聞離れ」が起こっているとされて久しい。テレビというハードを買う必要がない、新聞購読料金が高いという問題もあるが、根本的にこの理由は、「自分で選んだ感があるか否か」に起因している。
検索とクリックという過程を経て「たどりついた」ように思えるネットやSNSや動画からの情報は、このような身体性の有無によって、テレビや新聞よりも「信用できる」と少なくない人は感じるのである。
・オールドメディアがいくらファクトチェックをしても届かない
こうなってくると、フェイクを流している・いないとか、ファクトチェックができている・いない、というのはあまり関係はない。人間は「自分で選び、たどり着いたもの」にこそ信頼を寄せる。テレビや新聞は「自分で選んだもの」ではないので、信用を置かない。問題の本質は、人間の本能ともいえる身体性・身体感覚にこそあると筆者は考える。
繰り返すように筆者は永年、ネット保守や陰謀論者の動静を調査、分析してきた。その結果、荒唐無稽な作り話や、陰謀論を信じている者のほとんどが、老若男女問わず異口同音に言うのは、
「私が調べた、勉強した」
と口にして、前述の陰謀論を信じる強い理由や動機にしている。その情報源が真実か否かはあまり関係がなく、そこにたどり着くまでの主体性、選択性の有無が重要なのである。彼らがいう「調べた」とか「勉強した」というのは、とどのつまり「検索とクリック(画面のタッチでもよい)」のことだ。
例えば荒唐無稽なDS(ディープステート*注、世界を裏側で操る巨大な複合体?などとされる)といった陰謀論を信奉するものは、彼ら自身はじめこそ半信半疑だったが、真実が知りたくてネットで調べたところ、答えにたどり着いた―、というような趣旨のことを述べる。細部は違っていても、結論は皆同じである。必ず、前述のセリフを口にするのである。
彼らは自宅に大きなテレビがあり、販売店との付き合いで新聞をとっているケースも少なくはない。それでもなお、彼らはテレビよりもSNSやネットを信じるのは、スマホやPCを用いた「検索とクリック」という行為自体が、彼らに「自分で調べ、勉強した」という能動的な感覚を与えるからである。繰り返しになるが、テレビや新聞といったオールドメディアにはその行為が入り込む余地はない。番組表をリモコンで操作する程度では、この「能動感」を再現することはできない。
実際には、SNSや動画は、すでにプラットフォーム側がユーザーの好みに合うようなリコメンド機能を実装しており、とうてい「能動的に選ぶ情報」とはいいがたい。しかしその実態はほとんど関係がなく、あたかも「自分が選んだ」と錯覚することが重要なのである。
こうなってくると、これはテレビとか新聞といったメディアの報道内容とは関係がなく、受信機とか紙などといった物質的な問題に起因するので、いくらオールドメディアが今後、「選挙期間中であっても、ファクトチェックをより緻密に行う」などと対策を講じても、あまり意味はないということになる。そしてこの問題は、日本人の有権者がどうの、という次元でもなく、世界的に同じなのである。なぜなら人間の持つ本能的身体性はどの国でも同じだからだ。言うまでもなくトランプ再選でも当然同じ現象が起こっている。
テレビよりもSNSを信じてしまう問題。解決策は、いわゆるオールドメディア側が、立花孝志氏のようなインフルエンサーを、秘かに培養して対抗馬として立候補させるしかない。つまり、言っていることは全く反対だが、やり方は同じという「シン・立花氏」を擁立すること以外にない。しかしそれは法律の問題はともかくとしても、テレビや新聞などといった大企業に勤める文系エリートにとって、そのプライドが許さないだろう。
・「自分で選んで買った」という身体性

最後にひとつ。いわゆるオールドメディアと呼ばれるものには、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌の四つがあると諒解される。新聞はデジタル版の普及により、能動的なメディアに脱皮しつつあるが、無料記事はともかく、デジタル版購読料の料金設定からして無料のSNSよりも間口が狭く、苦戦が続くだろう。
ラジオは「ラジコ」の普及によって、受動から能動的なメディアになりつつあるので将来展望はやや明るい。ラジコをインストールし、番組を検索し、クリックするという身体性が含まれ、リスナーに主体性を感じさせるからだ。むろん、最近は民放テレビによる「TVer(ティーバー)」の普及が目覚ましいが、ユーザーの多くはドラマの見逃しに期待しているから、非政治的な存在であり続けるだろう。
将来展望が最も明るいのは雑誌だ。週刊誌の報道がこれほど人々の心をつかみ、時には芸能界や社会、政治までをも大きく揺り動かすのはなぜだろうか。当然そこには緻密な取材と構成の力があることは言うまでもない。しかし、同様のことをテレビが報じてもそこまでのインパクトはない。昨今のセンセーショナルな話題は、週刊誌から始まる。なぜか。
週刊誌は、新聞と違って毎週自宅に届けられるものではない。「気になる記事があったら、コンビニに行き、自分のお金で買う」という形態をとるのが一般的である。つまりこれは「検索とクリック」に似ていて、「自分の意志(選択)でこの雑誌(記事)を買った」という能動感、選択感を読者に与えているからだ。だから私たちは、週刊誌報道に常に注目し、わりあい週刊誌の記事を信じるのである。(了)
参考記事
・『NHKから国民を守る党』はなぜ議席を得たのか?
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/ebbe4650cbaefa2124012ff5c884e62498e54a29