朝日杯を制したグレナディアガーズの中内田師が「特別な勝利」と語る理由とは?
簡単ではなかったG1制覇への道
20日に行われた朝日杯フューチュリティS(G1)を制したのはグレナディアガーズ。7番人気で穴をあけた同馬を管理するのは中内田充正調教師。
「今回の勝利は特別」と語った。
私が初めて彼に会ったのは20年ほど前。場所はフランス。当時、彼はイギリスに住む大学生だった。今回の勝利が「特別」なのは、そんな昔日の経験と関係していた。本人の弁を交えながら「特別な勝利」である理由を記していこう。
父フランケル、母ウェイヴェルアベニューの牡馬グレナディアガーズ。サンデーレーシングでの募集価格が1億2000万円というこの馬に中内田はその値に見合った素質を感じていた。
「身のこなしが一流馬のそれだったし、スピードもあったのでデビュー前から大きな期待を抱いていました」
7月の新潟競馬場、芝1400メートルでデビュー。2着に惜敗後、9月の中京競馬場で1600メートルの未勝利戦に臨んだ。
「初戦後のテンションも上がらなかったし、普段の調教や前走の内容から距離は大丈夫と思いました。実際、返し馬も待避所にいる間も落ち着いていて問題ないと思っていました」
トレセンでは時折ヤンチャな面を出す事はあったが、我を失うほどイレ込むような事はなかった。だからレース直前の様子を見守り「しっかり走ってくれそう」と感じた。しかし、ゲートが開くとそんな思惑は音を立てて崩れた。
「スタートしたらフランケルの難しさが出ました。いきなり暴走してしまいました」
道中、力み通しだったため最後はステップがバラバラになった。これでは伸びるわけがなく4着に沈んだ。
「力を出せずに止まってしまったので『どうしたら良いか?』と悩みました」
逸れそうになった進路を再び順路に引き戻してくれたのはグレナディアガーズ自身の“強さ”だった。
「思わぬ形で負けてしまったけど、心肺機能は高いのでダメージがありませんでした。また、メンタル面も大丈夫そうだったので、すぐに調教を再開出来ました」
折り合いを教育しつつ、馬具にも工夫を凝らした。初戦、2戦目に使用したDバミをより制御が効きやすくなるトライアビットに変更。メンコ(耳覆い)も被せ、阪神競馬場、芝1400メートルの未勝利戦に臨んだ。すると2番手を楽に追走。最後は余裕を持って逃げ馬をかわし、悠々と先頭でゴール板前を通過した。
「理想的な形でようやくこの子が力を発揮してくれました」
レース後、しばらく馬の様子を見た。肉体面だけでなく、精神面も含め、反動がないか、観察した。その結果、中5週でのG1挑戦を正式に決めた。
「オーナーサイドと話し合った結果、ゴーサインを出していただけました。とはいえ相手が強いのも分かっていたし、あくまでもチャレンジャーという気持ちで送り込みました」
ゲートが開くとモントライゼが1000メートル56秒台で逃げた。川田将雅を背にしたグレナディアガーズはスタートを決めると先行。前を見る位置で流れに乗る様をみて、中内田は「よしよし」と思った。
「前に何頭か置いて追走する理想的な形になってくれました。正直1600メートルに対する不安はまだ残っていたけど、この感じなら良いぞ、と思いました」
見解は的を射ていた。ゴールが近付くにつれ、伸び脚の鈍る先行勢の中で、グレナディアガーズだけが伸びた。先頭に立つと後続の追撃も振り切り、G1制覇のゴールに飛び込んだ。
「『あ、勝った!!』と思いつつ、もう1頭(ブルースピリット)使っていたので、そちらが5着に粘ったのを確かめました」
その後、改めて勝利を噛みしめた。
「コロナもあるけど、周囲が皆、関係者の中で観戦する事が多くなったので最近は声を出さずに見ています。今回も静かに応援して勝利を見届けました」
こう言うと「声は出さなかったけど、今回は特別な勝利でした」と続けた。
世界中を飛んだ若き日に出会った恩師
1978年12月18日生まれだから42歳になったばかりの中内田。今年で調教師生活9年目だが、栗東トレセンでのキャリアをスタートしたのは2007年。私が彼と最初に言葉をかわしたのは、このトレセン入りから更に7~8年ほど遡る。場所はフランスのシャンティイ。当時、20歳になるかならないかの後のG1トレーナーはイギリスの大学生だった。
「馬学科で勉強をしながら厩舎へ通い、調教にも乗せてもらっています。アマチュアライダーのレースではリングフィールド競馬場で2勝した他、フランスでも乗りました」
それから3~4年後、再び彼を訪ねた。この時の来訪先はアメリカ。彼は当時、かの国で飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していたロバート・フランケル調教師の下、調教ライダーをしていた。1年の半分をホームであるハリウッドで、残り半分をニューヨークの厩舎で馬に乗って過ごす日々。私が訪問した2003年は、調教師の年間最多G1記録を樹立した年という事もあり、厩舎はさながら名馬達の梁山泊。ブリーダーズCクラシックで1番人気となったメダグリアドーロやBCスプリントで同じく1番人気に支持されたアルデバランなど、馬房を覗けば名の知れた馬達がゴロゴロいた。
そんな1頭にエンパイアメーカーがいた。ケンタッキーダービーで1番人気に推されたこの馬だが、入厩当初は調教中に止まってしまう悪癖があった。そこで伯楽から指名されたのが中内田だった。
「どれだけゴネても叩いたり怒ったりしないで接すると、徐々に指示に従って走ってくれるようになりました」
新しいパートナーを得て、順調に調教が出来るようになったエンパイアメーカーはその素質を開花。先述した通りケンタッキーダービーで1番人気に支持されるまでになった。
その最終追い切り当日、事件が起きた。同じくダービーに出走を予定していたピースルールズの追い切りを終えて上がって来た中内田に罵声が飛んだ。
「時計通りに追えなかった事で、ボビー(フランケル調教師)からこれでもか?!というほど叱責されました」
続いて追い切ったのがエンパイアメーカー。全神経を集中して追い切りを終えた中内田が上がって来ると……。
「ボビーは何も言いませんでした」
安堵したが、レースの結果は非情だった。ファニーサイドの2着に敗れてしまったのだ。
「でも、結果を受けてまた怒鳴られるような事は全くありませんでした。だからその後も調教は普通に任してもらえました」
結果、ベルモントSでエンパイアメーカーはファニーサイドに雪辱を果たし優勝した。
「ボビーは常にセカンドチャンスをくれる人でした。2年半、彼の下で経験出来たのは僕にとって大きな宝物となって現在に生きています」
その“ボビー”が星になったのは2009年。この名調教師と懇意にしていたのがジェドモントファームのK・B・アブドゥラ殿下。殿下は、前年に生まれ、翌10年にデビューする牡馬に、師のファミリーネームからフランケルと命名すると、同馬は14戦14勝。種牡馬となり、17、18年にイギリスのチャンピオンS(G1)を連覇したクラックスマンなど、駿馬を世に送り出した。日本でもオークス馬ソウルスターリングや芝でもダートでもG1を制したモズアスコットなど活躍馬を出したが、このたびそのラインナップに名を連ねる事になったのがグレナディアガーズだ。
「フランケル産駒を僕はずっとやってみたかったんです。素晴らしい調教師の名をつけられた馬の子でG1を制すのは、目標の1つでした」
中内田はそう言うと続けて「お世話になった師匠に少しだけ、恩返し出来たかな……」と感慨深げに口にした。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)