【深掘り「鎌倉殿の13人」】暗闘と殺戮ばかりの鎌倉幕府は、なぜ存続したのだろうか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、御家人間で盛んに殺戮が行われている。にもかかわらず、なぜ鎌倉幕府は存続したのか、詳しく掘り下げてみよう。
■源頼朝というカリスマ
12世紀後半、まだ平氏が全盛だった頃、東国には多くの豪族が盤踞していたが、決してまとまりがあったわけではない。なかには平家から圧迫される豪族もいたが、泣き寝入りの状況だった。そんな状況を変えたのが源頼朝だった。
平治の乱で敗北を喫した頼朝は、伊豆国へと流された。伊豆で頼朝は北条政子と結婚し、その父・時政という後ろ盾を得た。さらに平氏に不満を持つ東国の豪族は、頼朝に結集したのである。
こうして頼朝は平氏に挙兵したが、豪族らに対する態度は厳しかった。上総広常のような大豪族であっても、叛意を抱いた場合は容赦なく討伐した。それは範頼、義経といった兄弟でも同じで、従わなければ迷わず討った。頼朝は一種の恐怖政治で、豪族を従えたといえよう。
■源頼家以降
頼朝には強烈なカリスマ性があり、たとえそれが恐怖政治であっても、御家人らは従った。しかし、子の頼家は若く未熟で、頼朝のようなカリスマ性がなかった。そうは言いながらも、頼家が源家の正統だったのは疑いない。
一方、頼家の祖父の北条時政、頼家の乳父の比企能員は、源家の正統を差し置いて、自らが「鎌倉殿」になる資格を持ち合わせていなかった。そこで、源家正統の後ろ盾になるべく、抗争を繰り広げたのである。
ほかの御家人も同じことで、自らが頼家の後ろ盾になることができなくても、時政か能員に味方することで、生き残りを図るより道はなかった。こうして、御家人間での果てしない殺戮が繰り広げられる。
つまり、御家人は単独で存続することは困難であり、幕府を築いた源家のもとに結集するよりほかはなかった。つまり、御家人は鎌倉幕府体制という既成の秩序の枠で生き残りを図ったのだ。
■まとめ
頼朝の登場以降、東国の豪族は御家人として編成され、源家のもとに結集した。ところが、圧倒的なカリスマ性がある頼朝の死後は、時政と能員が頼家の後ろ盾となるべく抗争を繰り広げた。
それでも鎌倉幕府が存続しえたのは、御家人らがすでに構築された幕府の体制に組み込まれたからだった。もちろん、反抗的な者は、「鎌倉殿」の名のもと討伐された。また天皇・公家との関係などもあり、容易に幕府は崩壊しなかったのである。