【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経を受け入れた藤原秀衡は、頼朝も恐れる東北の王者だった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第20回では、藤原秀衡が源頼朝に追われた源義経を庇護した。いったい藤原秀衡とは何者なのか、その点を詳しく掘り下げてみよう。
■奥州藤原氏とは
ときどきドラマに登場していた藤原秀衡。今回は、大いにその存在がクローズアップされた。そもそも奥州藤原氏とは、いかなる一族だったのだろうか。
奥州藤原氏は藤原秀郷の流れを汲むといわれ、その祖の亘理恒清は安倍頼時の娘を娶り、前九年の役(1051~62)で安倍氏に味方して戦ったものの、結局は討ち死にした。
遺児となった清衡は、母の再婚相手の清原武則のもとで育てられた。後三年の役(1083~87)がはじまると、清衡は源義家とともに戦い、独立することに成功した。11世紀末頃に至り、奥州平泉(岩手県平泉市)に基盤を置いたのである。
清衡は陸奥・出羽の2ヵ国に強い影響力を持ち、天皇家や摂関家との関係を強めていった。のちに、清衡は中尊寺を建立し、金色堂には清衡のミイラ化した遺骸が安置されている。
後継者の基衡(清衡の子)は、出羽国押領使として活躍した。京都文化を積極的に受容し、毛越寺の再建にも力を尽くした。金色堂には、基衡のミイラ化した遺骸も安置されている。
藤原氏の経済的基盤は、日本有数の産出量を誇った金にあったと指摘されている。12世紀中後半、京都では平家が絶大な権力を握っていたが、奥州藤原氏はほとんど唯一対抗しうる勢力だった。
■実力者の秀衡
保安3年(1122)、秀衡は基衡の子として誕生した。秀衡は父の後継者として、陸奥・出羽領国の押領使に任じられた。
秀衡の遺体の調査結果によると、体型はやや肥満気味で、身長は約160cm。血液型はAB型で、胸は広く厚くがっちりしていたという。「北の王者」にふさわしい体格だった。
嘉応2年(1170)、秀衡は鎮守府将軍、従五位下に叙位任官された。鎮守府将軍とは鎮守府の長官のことで、陸奥国司とともに蝦夷の支配を担当した。しかし、鎮守府将軍には現地の者を任用しない原則があったので、公家は「乱世の基」であると嘆いたという。
養和元年(1181)、秀衡は陸奥守、従五位上に叙位任官された。平家は秀衡を厚遇することで、頼朝を牽制しようと考えたのだ。秀衡の権勢がうかがえ、平家も頼朝も決して無視できない存在だった。
秀衡の鎮守府将軍、陸奥守の任官は、ともにまったく前例がなかったので、秀衡がいかに平家や頼朝に恐れられていたかが理解できる。
■義経を庇護した秀衡
秀衡は、源義経の恩人でもあった。承安4年(1174)、義経は自ら元服を果たすと、鞍馬寺(京都市左京区)を発ち、そのまま奥州平泉に赴くと、秀衡のもとで庇護された。
治承4年(1180)8月、源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、義経は秀衡の反対を押し切ってまで、頼朝のもとに馳せ参じた。その後、義経が平家滅亡の立役者となったのは、周知のとおりである。
しかし、義経は頼朝と対立し、勝機を見いだせないと判断したので、文治元年(1185)11月に都落ちした。当初、義経は九州を目指したが叶わず、ひたすら逃避行するしかなかった。
翌年11月、義経は頼朝の追跡をかいくぐり、妻子とともに伊勢、美濃を経て奥州平泉に入り、再び秀衡に庇護されることになった。秀衡は頼朝との関係悪化を懸念したが、あえて義経を受け入れたという。
■むすび
秀衡が義経を受け入れたので、さすがの頼朝も容易に手出しができなかった。しかし、秀衡は文治3年(1187)10月に病により亡くなった、あとを継いだのは、子の泰衡だった。秀衡の死は、頼朝の好機となった。義経の最期については、改めて取り上げることにしよう。