高橋洋子 “エヴァ”を歌い続けてきた稀代のシンガーの矜持「生活の中に歌がある、人生が歌に出る」前編
「過去30年間で最も歌われたカラオケ曲」(2022年発表)第1位は『残酷な天使のテーゼ』
昨年発表された「過去30年間で最も歌われたカラオケ曲」第1位を獲得したのは、高橋洋子が歌うテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主題歌「残酷な天使のテーゼ」(1995年)。高橋はこの、世代を超え愛されるスタンダードナンバーだけではなく、1997年には「残酷~」同様今も多くの人から愛される名曲「魂のルフラン」(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』主題歌)もヒット。1991年にデビューしてからこれまでにシングル29作、アルバム12作、ベストアルバム8作を発表し、日本を代表するアニソンシンガーとして海外のファンも多い。
5月10日には通算30作目、4年ぶりのマキシシングルCD「EVANGELION ETERNALLY」を発売した。このシングルについて、そして32年間というキャリアの中で何を大切にし、歌い続けてきたのかをインタビュー。前・後編でたっぷりとお届けします。
「『残酷~』とは自分のスキルを活かせるひとつの作品として向き合った」
『新世紀エヴァンゲリオン』(以下エヴァ)シリーズと共に歩んできたシンガー人生ともいえるキャリアだ。「残酷~」はエヴァのコアファン以外の層からも愛され長く歌い、聴き継がれてきた。高橋というと“エヴァの人”という捉え方をする人も多い。
「1991年にバラードシンガーでデビューし、95年に『新世紀エヴァンゲリオン』という作品と出会い『残酷~』を歌うことになりました。歌手として、ずっとプロフェッショナルとして色々な声を出して、色々な歌を歌うということを生業としていた人生だったので、『残酷~』を歌うことになった時も、自分のスキルを活かせる中のひとつの作品として向き合いました。デビュー前にもアニメのイメージアルバムで歌っていたり、アニソンが初めてではないし特別な感じはありませんでした。『新世紀エヴァンゲリオン』は初回放送当初からヒットしたわけではなく、再放送を繰り返す中でどんどん火がついていきました。『残酷~』が一番のヒット曲で、その後も関わらせていただいていますので、当然『エヴァ』の人って思われていると思います。そこで興味を持っていただいて、シングルやアルバムでまた違う世界観を伝え続けてきた32年でもありました」。
「アニソンはみんなのもの。だから私というアイデンティティだけを出す場所ではない」
社会現象にもなり、日本のアニメの歴史を塗り替えたといわれるエヴァ。世界中で注目を集める作品の歌を歌うというプレッシャーは如何ばかりか――。
「根本にあるのはこの作品に対するリスペクトです。アニソンはみんなのものだと思っているので、だからこそ『私だけ』が出ていく場ではない。私というアイデンティティだけを出す場所ではないんです。『エヴァンゲリオン』という作品があって、『残酷~』という楽曲があって、それを歌う私は存在しますが私という個人がこの作品を語るとか、そこに入っていくものではないということを理解した上で、歌い始めました。なので『残酷~』も1995年の作品ですが、歌い手が年を取ったから声も年を取りました、ではダメなんです。この曲を歌う時は毎回オリジナル音源を聴いて、練習してから臨みます。声は歳をとっても、歌い方や表現は今の私が1995年当時に寄せていくというか、1995年の高橋洋子のモノマネができるような状態はキープして、皆さんにお届けするということを心がけています。そういう意味ではプレッシャーです(笑)」。
「喉を酷使しない歌い方もできますが、でもみなさんはそんな楽な歌は聴きたくないはず(笑)」
『エヴァ』の音楽は、その世界観やそこに存在する“哲学”のようなものをしっかり歌で伝えなければいけないと感じる。だからシンガーにとっては難曲が多い印象だ。
「喉を酷使しない歌い方もできますが、でもみなさんそんな楽な歌は聴きたくないはずなんです(笑)。裏声で歌えば楽に歌える箇所もありますが、やっぱり高音がせめぎ合ってるところの表現を、みなさんは聴きたいと思うので、喉を酷使します(笑)。歌は筋トレに似ていると思います。コンサートの翌日は絶対に練習をします。例えば、筋トレをやって、次の日動いた方が治りが早いじゃないですか。それと同じだということに気づきました。声をずっと出していると掠れてくるけど、山があって、そこを超えると成長するんです」。
「体自体が楽器。トレーニング等を続けている効果で、昔より声のレンジが広くなって、できることが増えた」
声のコンディションを、常に一定のレベルにキープしておくための生活が続いているという。まさに歌に命をかけている、そういっても過言ではないストイックな生活を課すことで、最高の歌をファンに届けている。
「父がいつも私に『洋子から歌をとったら何も残らないんだよ』って、結構酷いことを言うんです(笑)。でもそれくらい不器用だし、好きか嫌いかということだけでなく続けられることが歌うことなので、全てそこに合わせた生活をしています。とはいえ自由がないわけではないのですが、夜寝る時はマウステープをして、マスクをして首にストールを巻くということは欠かせません。それに喉に悪いので、お酒を飲んで大騒ぎをすることもしません。体が楽器ですから、トレーニングも含めて自分のスキルをより上げるために必要と思うことは毎日やります。年齢を重ねた今は、昔よりもっと練習しないといけません。でもそれを続けているので、昔より声のレンジが広くなったし、できることがすごく増えました」。
2000年から介護の現場へ。そこで「音楽の力」を再認識する
デビュー前から、久保田利伸や松任谷由実の作品やライヴにコーラスとして参加するなど、その圧倒的なボーカルパワーと表現力は注目を集めていたが、デビューから30年以上高い評価を得続けているその裏には、日ごろから積み上げてきた努力が、輝きとなって彼女に光を与えていた。だから進化を続けることができる。そんな高橋だが、2000年から様々な理由によって、一旦第一線から退いていた時期があった。
「色々な理由がありますが、当時はたくさんの人に手助けされて、ぬるま湯に浸かって活動している感覚があって。でも歌ってその人の人生が出ると思うし、子供にも胸を張れる人生を送りたかったので、一旦リセットしたくなって環境を変えました。介護ヘルパーをやりながら、その現場や、幼稚園、銭湯などで仲間達と手作りコンサートをやったりしていました。“エヴァの高橋洋子”ではなく、ひとりの人間・高橋洋子として、その場で皆さんと歌を作ったり、歌ったり、のびのびとやっていました」。
介護ヘルパーを5年間経験。そこで「音楽の力」を再認識し、再び歌いたいという思いが強くなり、紆余曲折を経て最前線に戻ってきた。人生、生活が歌に反映されると考える高橋は、より人の生活を彩ることができる、光を当てることができる歌を表現できるようになった。
【後編】に続く