思い出の人との思い入れのある馬でG1に挑戦した若きジョッキーの今後に懸ける想い
当日は発汗もみられた。ゲートの中では嫌な雰囲気を感じていたと言う。
「ゲートは前走のニュージーランドトロフィーの時も良くなくて、この時も落ち着かず、幼い面を見せていました」
厩務員にはギリギリまで付いていてもらった。しかし、厩務員が出た途端、潜ろうとして突進した素振りがテレビ画面でも確認できた。そして……。
「案の定、飛び上がる感じのスタートで出遅れてしまいました」
流れも向かず、リズムに乗れなかった。それでも最内1番枠を利して無理することなくポジションを上げることが出来た。
「その日のレースを見ていて外差しは利き辛いと思いました。だから内に行こうと判断しました」
結果、窮屈になるシーンもあり8着に終わった。
「まだ幼いところはあるけど、大きいレースを狙える能力はあると思います。だから今回、カツジを1着に導いてあげられなかったのは、自分の責任だと考えています」
これがNHKマイルカップにおける松山弘平の手綱捌きであり、見解だった。
騎乗した馬はカツジである。
新馬から乗り続けG1の舞台へ
栗東・池添兼雄厩舎からカツジがデビューしたのは2017年10月21日の京都競馬場。この時から鞍上には松山がいた。
「デビュー前の調教から跨らせていただき、良い馬だと感じていました」
結果、芝1600メートルの新馬戦を1番人気に応えて快勝した。
続く2戦目は11月11日のデイリー杯2歳S(G2)。初戦と同じ舞台だが、勝ち上がっている馬同士の1戦ということで4番人気の支持にとどまった。しかし、直線に向くと自ら逃げ馬を捉えに動き、先頭に立つシーンを演じてみせた。
結果はジャンダルムに内をすくわれる形で敗れるも2着に善戦してみせたのだ。
デビュー3戦目となったのは年が明けてから。2月4日の京都競馬場。芝1800メートルのきさらぎ賞(G3)に出走すると、今度は3番人気に推された。
ところが前走比プラス14キロでデビュー以来最も重い490キロが堪えたのか、5着に沈んでしまった。
「距離が敗因という感じではありませんでした。ちょっとハッキリとは分からない感じで負けてしまいました」
デビュー以来手綱をとり続ける松山はこう言った。しかし、ここで敗れたことで陣営はマイル路線に照準を戻した。こうして迎えたのが続くニュージーランドトロフィー(G2)だった。
「スタートは五分に出たのでポジションを取りに行こうと思いました。でも、進んで行かなかったので馬のリズムを大事にしようと無理はしませんでした」
すると序盤は後方から2番手という位置取りになった。しかし、松山は慌てなかった。
「普段からずっと乗せていただき、良い馬なのも、特徴も分かっていました」
だから急いで挽回しなくても大丈夫と信じて乗った。その結果、外から先行勢をひとまくり。最後は先に先頭に立ったケイアイノーテックをきっちりと差し切ったところがゴールだった。
「強い競馬をしてくれました」
こう言うと、G1・NHKマイルカップの出走権利を獲得したことに、目尻を下げた。性格的に大騒ぎする方ではないため、粛々と喜びを噛みしめて、言った。
「この馬には特別な思い入れがありますから……」
馬名に込められた期待と、鞍上との関係
カツジのオーナーはカナヤマホールディングス。その会長の金山政信は、この馬がトレセンに入厩する前から「ジョッキーは弘平ちゃんで」と決めていたらしい。
その理由はこの独特の馬名に隠されていた。
金山は「これぞ!!」という馬が出てくるまで、この馬名をしたためていた。そして33頭いる同世代の中から、ディープインパクトの仔で、母(メリッサ)も重賞を勝っているこの馬に“カツジ”と命名した。
ちなみに通常、金山が馬名をつけることはまずない。スタッフらにお任せで、この世代の中でも彼が命名したのはカツジただ1頭である。
カツジとは、金山の遠縁にあたる“勝次”という名の人から名付けられた馬名だった。
「勝次さんには僕も大変お世話になっていました。食事に連れて行ってもらったりと、本当によくしていただいたんです」
そう語るのが松山だ。
最初は人の紹介だった。何度か食事をするうち勝次さんが松山の人となりに好意を寄せ、「弘平ちゃん」と呼ぶようになり、2人は気のおけない仲となったのだ。
ところが勝次さんは松山がG1ジョッキーになった時(2017年、アルアインにより皐月賞勝ち)にはすでにこの世にいなかった。2年前の春、五十代の若さで亡くなってしまったのだ。
「告別式にも参列させていただきました」
そう語る松山の表情は今でも悲しげになる。
金山が期待を込めて名付けたカツジの新馬戦には、勝次さんのご家族も観戦に駆けつけていたという。当時、松山は、ある意味、G1に乗るよりも緊張したのではないだろうか……。しかし、そんなプレッシャーも跳ね返して勝利できたことで、彼もまたひと回り成長出来たのかもしれない。勝次さんが亡くなってもまだ、松山は彼から教えてもらっているということだろう。だから、NHKマイルカップで敗れてしまった後も、次のように語ったのだ。
「いつか勝次さんと一緒にG1を勝ちたいし、勝てるように、これからも頑張ります」
天国の恩人に朗報を届けられる日が来ることを願いたい。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)