設楽原の戦いで武田軍を撃破した、織田信長の鉄砲部隊を率いた5人の精鋭武将
大河ドラマ「どうする家康」では、設楽原の戦いの場面がメインだった。設楽原の戦いでは、織田・徳川連合軍の用いた鉄砲が威力を発揮したが、織田信長の配下で鉄砲部隊を率いた5人の武将を紹介しよう。
天正3年(1575)5月21日、設楽原で織田・徳川連合軍と武田軍が激闘を繰り広げた(設楽原の戦い)。このとき、織田信長の命令により、5人の武将が鉄砲部隊を率いた。『信長公記』には、次のとおり書かれている。
鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富(ふくずみ)平左衛門、塙九郎左衛門、御奉行として、・・・。
5人を実名とともに改めて紹介すると、佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政である。この5人が鉄砲奉行として、千丁の鉄砲を預かり、鉄砲部隊を指揮したのである。以下、5人の奉行を紹介しよう。
佐々成政(1536~88)は尾張の出身で、信長に仕えて親衛隊たる黒母衣衆の筆頭に起用された。天正元年(1573)の越前朝倉氏攻めでも、大いに軍功を挙げたことで知られている。
前田利家(1538~99)は尾張出身で、信長に仕えて「槍の又左」と言われるほど恐れられ、赤母衣衆を務めた。一時は信長の勘気を蒙って追放されたが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いから復帰した。
野々村正成(?~1582)は美濃出身で、もとは斎藤氏に仕えていた。斎藤氏が織田氏との戦いに敗れ、美濃から放逐されると、信長の馬廻として仕えるようになり、のちに黒母衣衆に抜擢された。
福富秀勝(?~1582)は美濃出身で、父の代から織田氏に仕えた。秀勝も永禄年間に信長の馬廻として仕え、のちに赤母衣衆に起用された。以降、秀勝は信長に近侍し、多くの合戦に出陣したのである。
塙直政(?~1576)は尾張出身で、信長の馬廻として仕え、永禄年間に赤母衣衆に起用された。信長に従って各地に出陣し、元亀元年(1570)5月には丹羽長秀とともに鉄砲調達奉行を務めたという。
設楽原の戦いで鉄砲奉行を務めたのは、信長の馬廻あるいは黒母衣(赤母衣)衆などの側近中の側近だった。つまり、彼らは百戦錬磨の精鋭中の精鋭だった。ここに勝利のカギがあるのかもしれない。