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クラウゼヴィッツ「戦争論」とロシアのウクライナ侵攻

亀山陽司元外交官
(写真:ロイター/アフロ)

現在、ロシア軍によるウクライナ侵攻について様々に報道され、また、論じられ、その非道性が特に脚光を浴びている。また、ロシアによるハイブリッド戦争、マルチドメインオペレーションなど、新たな戦術について色々と議論されている。プーチン大統領の「狂気」や「精神状態」が今回の侵攻の原因であるとの見方も示されている。しかし、本当にそうなのだろうか。プーチンがおかしくなったから、という理由で済ましていいものだろうか。それは、プーチン大統領との交渉や話し合いをすることは意味がない、といっているのと同じである。

そこで、本稿では、あえて戦争研究の古典であるクラウゼヴィッツの「戦争論」に立ち返って、特に第一部「戦争の本質について」を参照しながら、ロシアのウクライナ侵攻について考察してみたい。この紛争が戦争論の古典であるクラウゼヴィッツのテーゼ、「戦争とは他の手段による政治交渉の継続である」を想起させるからである。

戦争とは政治の継続である

ロシア政府は、昨年12月、NATO東方への不拡大を定める条約案を作成し、米国とNATOに申入れたが、米国やNATOはオープンドアポリシーを盾にこの要求を拒否した。年が明けて、立て続けに米露の協議が行われたが結果は変わらなかった。ここでロシアは、外交交渉の余地なしと判断して、強制的にウクライナを非武装中立化させる方向に切り替え、侵攻に踏み切ったと主張している。つまり、ロシアは自らの政治目標を外交交渉で達成できないから、ウクライナ侵攻という軍事行動に切り替えたということである。この判断は、政治交渉の継続としての戦争という性格をよく表している。つまり、ロシア側は「これは戦争ではない」と主張しているようだが、クラウゼヴィッツの言う「政治の継続」としての「戦争」であることは疑いようがない。

戦争目的と政治目的

また、クラウゼヴィッツによれば、戦争する場合、政治的な目的と戦争の目的とがあり、政治目的を達成するために戦争の目的を追求することになる。そして、戦争目的が政治目的と同じである場合もあれば、そうでない場合もあるという。政治目的と戦争目的が同じとは、例えば、領地の占領が政治目的である場合である。今回の場合について言えば、ロシアによるウクライナ侵攻の目的は二つある。

第一に、ドンバス地域の独立と安全の確保である。ロシア系住民が多く居住するウクライナ東部のドンバス地域をロシアは「同胞」と位置付けている。2020年7月の憲法改正により、「国外の同胞の権利、利益の保護、ロシア文化のアイデンティティの維持」が追記されたため、憲法上これを見捨てるわけにはいかないというロシア側の理由があるからである。この場合、ドンバスへの侵攻が、そのまま政治的な目的に一致している。ロシア政府の当初のシナリオにはこれでとどまる選択肢もあったのではないかと筆者は考えているが、結果的にはロシア政府はさらに進んでしまった。もう一つの政治目的を同時に達成しようとしたのである。

これが第二の目的であって、冒頭に述べたウクライナの非武装中立化という主張である。このように、ウクライナの問題は次元の異なる二つの原因が絡み合っているところに、国際社会の判断を混乱させてしまった理由があったと考えている。

このウクライナの非武装中立化というのは、戦争で相手を倒したからといって即座に達成できるものではない。なぜなら、ウクライナの占領自体が今回の目的ではないとプーチン大統領が発言しているからである。ウクライナ占領というコストは払わずに、ウクライナ側に非武装中立という条件を呑ませることができれば、その方が望ましいのである。では、どうするつもりなのだろうか。

代償としての戦果

クラウゼヴィッツは、政治的目的が占領自体でない場合には、別の戦争目標を定めて、これを達成した上で、その代償として政治的目的を達成しようとするという。例えば、首都を占領した上で、「軍を撤収させ、首都を解放する代わりに、これこれを認めよ」、などと自分の主張を押し付けるということである。このような取引が成立するためには、代償として獲得されたものが本来の政治的目的よりもはるかに大きくなければならないという。奪われたものを取り返すには、敵の要求を吞むこともやむを得ないと思わせなければならないからである。

ウクライナ侵攻の場合では、ロシアが求めるものはウクライナの非武装中立化であり、そのためには、ウクライナ政府が自国の軍事力を制限し、同時に中立政策をとること、具体的にはNATOに加盟しないことを憲法上定めることなどが求められている。これは、確かにウクライナ現政権にとっては非常に困難な要求である。というのも、EU加盟、NATO加盟を目標として掲げてきたわけだから、ロシア政府の要求を呑んでNATO加盟しないというのであれば、政権放棄となる可能性が非常に高い。

しかも、ウクライナは2014年以来、ロシアに対抗するべく国軍を増強してきたのであり、米国やNATOからの支援も受け続けてきた。ここでロシア側の要求を呑むことは、これまでの米国やNATOとの関係を見直す、場合によっては断ち切ることを意味するだろう。その場合には、ウクライナ国内に再び大きな分断と混乱が起こることが予想される。強制的に押し付けられた要求がどのような結果を生むのか、冷戦後に中・東欧諸国が西側にくらがえしたのをロシアはよく覚えているはずなのだが。

キエフ攻防戦の行方

いずれにしても、双方の政治目的は根本的に対立しており、容易に妥協には至らないだろう。ロシア側もそう考えたからこそ、軍事侵攻という暴挙に出たのである。この暴挙に出たからには、ロシアとしては政治目的を達成するに足る戦争目標、つまり代償を獲得するまではとどまることはないと考えられるのである。既に、ウクライナ南部、北東部、南東部で支配領域を広げているが、天王山は首都キエフである。ロシアはキエフ占拠の構えを見せており、この状態で停戦交渉を既に3度行ったが、3月7日に行われた3度目の交渉もうまくいかなかった。したがって、交渉を動かすために、このあたりでまた攻勢をかけてくる可能性も否定できない。

ここでロシアがとっている戦術は、クラウゼヴィッツの言うところの「侵略」である。侵略とは、占領と異なり、その領域を長く保持する意図はなく、単に疲弊させることを目的として行われるものである。ザポリッジャ原発の占拠もその一つである。重要インフラを押さえ、主要都市を押さえ、そして首都を押さえることで、ウクライナ政府や国民の抵抗を抑え、戦意を喪失させようとしているわけである。

戦闘力の整備、維持

一方のウクライナについてはどうだろうか。ウクライナは何もしていないのに国家喪失の危機に直面する悲劇の被害者にすぎないのだろうか。すでに述べたように、2014年の政変以降、ウクライナは西側志向を推し進めてきた。それは、EUや米国によって支持され、様々な国内改革が推し進められた。この過程でウクライナの民主化が進んだのは事実である。西側に接近する一方で、クリミアやドンバス地域の奪還を掲げ、特にポロシェンコ前大統領の下でロシアとの対立が国家的な方針となってきた。その間、米国とNATOはウクライナの軍備増強を支援してきた。現在、侵攻するロシアに対抗するために使われているジャベリンといった対戦車兵器は米国が供与したものである。もちろん、ロシアにクリミアを奪われ、東部で分離派武装勢力と対峙するウクライナ軍が装備を増強することは当然のことである。

しかし、クラウゼヴィッツによれば、戦闘力の養成(整備)、維持、使用は全て軍事行動に属する。また、戦闘力の整備と維持は手段であって、使用こそがその目的であると断定される。ロシアの側から見れば、ウクライナの軍備増強は戦闘力の整備であり、軍事行動に他ならないことになる。

NATOを巻き込みたいウクライナの思惑

現在、ロシア軍がキエフに進軍しつつある中、ウクライナはウクライナ領空の閉鎖など、NATOの軍事援助を求め、それが拒否されていることを非難している。もちろん、ここまでウクライナ軍の増強に協力してきた米国やNATOは、ウクライナの現状に無関係ではあり得ない。しかし、ウクライナが望むようにNATOが軍事介入すれば、プーチン大統領が言うように、ロシア対NATOの戦争、欧州大戦、場合によっては世界大戦が勃発するだろう。ロシア侵攻以前ならともかく、今NATOを巻き込むことの意味をウクライナはわかっているのだろうか。戦争のエスカレーションは何としても避けるべきである。それだけの代償を支払う用意は誰にもないというのが現実なのだ。ここでもクラウゼヴィッツを参照すれば、ロシアの求める政治目的が欧州占領といった大それたものではなく、ウクライナの非武装中立化である限りは、これを押しとどめる代償が欧州大戦というのでは、目的と代償が釣り合わない。当事者たちが冷静に目的と代償を評価することができなければ、悲惨な結果を招き得るということである。

ゼレンスキー大統領亡命の可能性

そこで英国や米国にはゼレンスキー大統領を亡命させ、亡命政権をつくるという計画も準備している。その場合には、ウクライナに「傀儡政権」が樹立され、いずれにせよ、ロシアの政治目的は達成されることになるだろうが、欧米等は対露制裁で対抗し続けるだろう。これは、一方で欧州大戦を回避するための策であり、もう一方でゼレンスキー政権がロシアに屈服することを回避するための策でもある。英米としては、欧州大戦という代償を支払うことはできないが、ウクライナが完全にロシアの勢力圏に取り込まれることも認めることはできないのだ。ウクライナ問題が、ロシアとウクライナという限定された地域の二国間問題ではなく、英米NATOとロシアというグローバルな構図で生じている争いであることが明らかとなるのである。ただし、ゼレンスキー大統領が亡命政権を樹立する場合には、ウクライナの分断と混乱がますます拡大することになるだろう。ウクライナ国民にとってそれが果たして良い選択であるのか。英米NATOにはよく考えて行動してもらいたい。

結果がどうなろうと、ロシアに制裁を加える必要があるのは間違いない。一方で、欧州大戦のような、目的と代償が釣り合わないような行動に出ることは現に慎む必要がある。非常に難しい仕事ではあるが、我が国を含む国際社会はそのあたりを見極めながら、賢明な外交で停戦交渉をサポートする責任があるだろう。

元外交官

元外交官 1980年生まれ。東京大学教養学部基礎科学科卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究専攻修了。外務省入省後、ユジノサハリンスク総領事館(2009~2011年)、在ロシア日本大使館(2011~2014年)、ロシア課(2014~2017年)、中・東欧課(ウクライナ担当)(2017〜2019年)など、10年間以上ロシア外交に携わる。2020年に退職し、現在は森林業のかたわら執筆活動に従事する。気象予報士。日本哲学会、日本現象学会会員。著書に「地政学と歴史で読み解くロシアの行動原理」(PHP新書)、「ロシアの眼から見た日本 国防の条件を問いなおす」(NHK出版新書)。北海道在住。

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