LGBT「理解増進」法案断念―なぜ保守派は”LGBT”に抵抗するのか?
LGBTなど性的少数者をめぐる「理解増進」法案の今国会成立を自民党などが事実上断念したのは既報の通りである。その背景には、自民党内外の保守系議員による強烈な抵抗があったためとされる。LGBTなど性的少数者に対する人権擁護に関する法整備は、”通常の”先進国では自明の潮流となっているだけに、今回の法案成立断念に失望・落胆の声が相次いでいる。
しかしなぜ保守派は、LGBTへの権利擁護にこれほどまで頑なに抵抗するのだろうか。その理由と背景を探ってみたい。
・戦時統制期のイデア(理想像)にしがみつく
筆者は永年保守界隈に居を構え、保守系論壇誌への寄稿や保守系番組への出演を行ってきた。当然その関連で、保守系議員(現職・元職国会議員や地方議員など)と邂逅するわけだが、彼らとその支持者の思い描く「日本における理想の国家像・社会像」からは、LGBTなど性的少数者が排斥されるか、最初から勘定の外として認識されている傾向が強いと感じる。
所謂保守派が想定する「あるべき日本社会のイデア(本来あるべき理想像の意)」とは、おしなべて日本が戦時統制期(1930年代)に完成させた家族制度の姿である。父と母が居り、父は職場(或いは戦地)に、母は家庭(銃後)を守る。その子らは親孝行の概念を濃厚に持ち、国家に奉仕する―。戦後の核家族化によってこの姿は微妙に変遷したが、所謂「モデル世帯(夫が40年間働き、妻は専業主婦で、子は1人か2人)」を基盤とした「あるべき家族像」に彼ら保守派は極めて強い執着と憧憬を持っている。
今次に関わらず、LGBT問題の全般に於いて、保守派は「(LGBTへの権利付与は)日本の伝統にそぐわない」などと言っている向きがあるが、一体日本のどの時代の「伝統と文化」を保持したいのかと言えば、日本が長らく許容してきた衆道(男色)が存在した中世や近世ではなく、あくまで彼らが想定する社会のイデアは明治以降、特段、戦時統制期において、その理想像を投射しているのである。
現実的に日本の保守派は、「あるべき日本社会のイデア」の重心を戦時統制期に置いているのに対して、その私生活は紊乱(びんらん)を極め、不倫、浮気、不貞が常態化していることも少なくは無いが、自らの道徳的逸脱は棚に置いて、他者に対して必要以上の規律の保持、つまり「あるべき日本社会のイデア」を押し付ける傾向がある。
これは何故かと言えば、彼らがおしなべて中産階級以上の準富裕家庭に育ち、ある程度の高等教育を受け、社会的な「ノイズ(不道徳)」に触れない生活を送ってきた社会階級だからである。つまりよく言えば優等生、悪く言えば温室育ちの保守派は、自らの生活やその属する社会に「あるべき日本社会のイデア」を見出し、そこから逸脱する存在は徹底的に排除するか拒絶する。この根本姿勢があるからこそ、LGBTなど性的少数者をめぐる「理解増進」法案は彼らの強い拒絶感を以て葬り去られたのである。
・”社会的ノイズ”を排斥する保守派
実際、今次LGBTなど性的少数者をめぐる「理解増進」法案に反対した保守系議員は、「活動家に利用される」だとか「訴訟が乱発する」だのの理由を挙げて反対した。しかしこれは筆者からすれば額面上の理屈でしかなく、彼らの本心としては、「あるべき日本社会のイデア」が攪拌(かくはん)されることを最も恐れているのである。
彼らの反対理由は至極後付けで、結局のところ、戦時体制下に確立した”幻想”ともいえる「あるべき日本社会のイデア」という秩序が乱れることを第一に漠然と恐怖しているように思えてならない。
このような理由から日本の保守系議員がおしなべて反対する事項に、「夫婦別姓への反対」とか、「女系天皇への反対」という項目が連なる。彼らの反対事由は極めてシンプルで、日本の伝統が破壊され、”道徳秩序”や”家族の絆”が乱れるからである、というモノであるが、なまじ温室育ちの保守派は、「LGBTの権利擁護」「(選択的)夫婦別姓容認」「女系天皇容認」という、時代に即した提案に対して、進歩派やリベラルが賛成しているという理由を梃子にして断固拒絶の意思を貫いている。繰り返すように、彼らの世界観は、1930年代に確立された戦時統制期における「あるべき日本社会のイデア」と、戦後に形成された「モデル世帯」への拘泥が強すぎるからである。
保守派は、彼らとその支持者にまったく濃密に共通することだが、現状の「規律」や「秩序」の維持を最優先する。実際にその規律や秩序が、日本史の中で極めて新しい時代に形成された道徳観であるか否かは関係がない。彼らがこぞって「移民反対」を唱えるのも、この規律や秩序に、外国人という”他者”が混在することによって、それが崩壊することを恐れているからである。
概ね社会経験の中でノイズの少ない温室で育ってきた中産階級たる保守派は、「純血なる日本社会の構成員こそが、あるべき日本社会のイデアの基盤となる」と信じている。だから猟奇的な殺人もしくは報道に値する重大犯罪が起こると、「彼らは日本人ではなく韓国籍や中国籍である」という流言飛語を乱舞させる。自らの社会は均質的で、かつ優等生的で、秩序を乱すものなどいない、という世界観が完成しているから、その秩序を乱すものは「反日・非日本人」と呪詛され、排斥の対象になるのだ。
・捨て去るしかない「共同体幻想」
LGBT問題は、日本の保守派にとって鬼門である。性的少数者は、日本国籍の日本人である場合が多いが、「あるべき日本社会のイデア」という保守派の理想像を崩す”ノイズ”と彼らには映るからである。彼らは「規律と秩序」を何よりも重視するので、少数派が権利擁護の声を上げようとするのを頑なに許容しない。
そこには、「通常の日本社会構成員は、現状の社会について不満を持たず、かつそれを行動で示すことは無い」という現状翼賛の世界観が支配している。そこから逸脱したものは”反日”認定とすらなり得る。
しかし繰り返すように、「あるべき日本社会のイデア」を強固に唱え、それでいて他者の道徳的素行に極めて厳しく、自身には極めて甘い私生活の紊乱を極めているのもまた日本の保守派の特徴である。こういったダブルスタンダードがまかり通る現状に自浄作用はなく、そこを改めない限りLGBTなど性的少数者をめぐる「理解増進」法案の成立は厳しい。
日本の保守派にはいびつな共同体幻想がある。「君民一体」という言葉に代表されるように、日本社会の構成員はすべて”モデル世帯”に収斂され、共同体と国家のために奉仕するのが当然であり、そこからはみ出たものを排斥する―、という根本的な情念が強い。
しかしこういった、村落共同体的史観は、歴史学者・網野善彦氏によって根本から否定されて数十年が経ち、日本の長い歴史の中での”伝統”といったものを鑑みるとき、「君民一体」とか「共同体」は幻想にすぎず、日本社会の構成員は実に自由であり、所謂”権門”が造った枠外で闊達に生きてきた様が学問的にも実証されている。
戦時統制期に出来上がった「ノイズを排除する」という封建的かつ自己矛盾した社会観を自民党内外の保守派が捨てない限り、LGBTなど性的少数者をめぐる「理解増進」法案は幾ら経っても成立不可能なのではないか。だが、この問題は彼ら保守派の世界観の根底を覆すものだけに、極めて難路かつ難題と言えよう。(了)