【「麒麟がくる」コラム】八上城攻撃の悲劇。人質となった明智光秀の母は八上城の城兵に殺されたのか
■人質となった明智光秀の母
明智光秀による丹波八上城(兵庫県篠山市)攻略に際して、有名な逸話がある。光秀は八上城を攻めぐねたので、自身の母を人質として波多野氏に差し出したという。
結果、波多野秀治ら三兄弟が殺されたので、怒った八上城の城兵は光秀の母を殺害したという。これは史実なのだろうか?
■エピソードの内容
光秀が丹波八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治が三兄弟を攻撃した際には、有名なエピソードが残っている(『総見記』『柏崎物語』など)。それは、本能寺の変で光秀が信長を討ったのは、怨恨によるものだという根拠になっている(怨恨説)。
エピソードの内容を解説しておこう。
光秀は自身の母を人質として八上城に預け、秀治ら三兄弟の身の安全を保証したうえで降伏させた。というのも、光秀は八上城攻略に苦慮しており、このままでは信長に叱責されるからである。
しかし、波多野三兄弟を安土(滋賀県近江八幡市)に連行したところ、光秀の助命という意向は完全に無視された。信長は秀治ら三兄弟の磔刑を命じ、安土城下で執行されたのである。
秀治ら三兄弟の処刑の一報を耳にした波多野氏の家臣は、ただちに人質だった光秀の母を殺害したという。そして、城外に打って出て光秀軍に突撃すると、ことごとく戦死したというのである。
この話が事実ならば、光秀が信長を恨むのもいたしかたないだろう。
■史料の性質
以上の話は、『総見記』『柏崎物語』などに書かれたものである。ただ、『信長公記』や光秀の書状によると、光秀の兵粮攻めで籠城していた兵卒は完全に疲弊していた。八上城の落城は目前だったのだから、事実と異なっている。
戦いで優位に立つ光秀が、敢えて母を波多野氏に対し、人質として送り込んだのか理由が判然としない。また、ほかのたしかな史料によって、光秀が母を人質として送り込んだことを確認できない。
『総見記』とは、『織田軍記』と称されている軍記物語の一種である。遠山信春の著作で、貞享2年(1685)頃に成立したという。本能寺の変から、100年ほど経て成立したものだ。『柏崎物語』は、『総見記』の記述をほぼそのまま受けたものである。
『総見記』の内容は、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したもので、脚色や創作が随所に加えられている。
史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。記述に大きな偏りが見られるため、とうてい信用に値するものではないと評価されている。
したがって、八上城の開城後の措置(秀治ら三兄弟を安土に連行し、磔刑に処したこと)については、光秀の書状や『信長公記』の記述のほうが信憑性が高いのは明らかだ。
逆に、『総見記』などの記述はあてにならないので、この逸話はまったくの創作であり、史実として認めがたい。
なお、今も八上城跡のある高城山の山中には、「はりつけ松跡」の看板があるものの、残念ながら史実として認めがたいということになろう。