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足利義昭が織田信長をてなずけようとし、失敗した理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
室町幕府があった京都。(写真:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が織田信長とともに上洛し、足利義昭と面会した。足利義昭はどうやって室町幕府を再興したのか、詳しく考えることにしよう。

 永禄11年(1568)9月、信長は義昭を奉じて上洛を開始した。途中で近江国の六角承禎(義賢)に協力を求めたが、拒否されたので、これを打ち破って西上した。破竹の大進撃だった。

 永禄11年(1568)10月、信長は畿内近辺で力を持つ三好三人衆らの諸勢力を攻略すると、一気に京都を目指した。こうして信長は、義昭を推戴して入京を果たした。信長の軍事力がなければ、義昭単独ではなしえなかったのである。

 信長が上洛した目的は、室町幕府再興を目指す義昭のためだった。従来、信長は義昭を傀儡とし、やがて天下を取ろうと考えていたといわれたが誤りである。同年10月18日、正式に義昭は将軍宣下を受け、室町幕府の再興を果たしたのである。

 入洛時の信長は、義昭と協力して天下(=畿内)の安泰を図ろうとした。それは二重政権と言われ、のちに2人は相補うかのような形で政権を運営していった。しかし、当の義昭は上洛したことに満足し、いささか有頂天になっていたようだ。

 義昭は将軍宣下を受けた直後の同年10月22日、十三番の能楽の興行を命じた。ところが、信長はまだ隣国の平定が終わっていないので、十三番から五番に短縮させた(『信長公記』)。

 信長の目的は室町幕府の再興だけでなく畿内平定にあったので、こうした措置を取ったのだ。能楽に興じている時間はなかった。とはいえ、当の義昭に真意が伝わったのか疑問である。

 その後、義昭は信長に副将軍か管領職を与えようとしたが、信長は辞退(『信長公記』)。また、永禄12年(1569)3月、正親町天皇は信長を副将軍に任じるため、勅旨を下した。

 ところが、最終的に信長から朝廷への回答はなかった(『言継卿記』)。義昭は信長に副将軍や管領に任命し、手なずけようとした感があるが、見事に失敗したのである。こうしたすれ違いもあり、徐々に信長と義昭の間には隙間風が吹く。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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