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【中世こぼれ話】あの法然や親鸞もかかわっていた僧侶と女性の密会事件、承元の法難の真実

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
法然は、浄土宗の開祖として知られている。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 女子テニスの彭帥さん(中国)の安否が不明になっている問題で五輪ボイコットに発展するなど、スキャンダルが大きな問題となることは少なくない。

 日本史でも同様に、スキャンダルが大問題に発展した事件があった。僧侶と女官の密会から、法然の門弟4人が死罪、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪となる「承元の法難」だ。この承元の法難を巡る知られざる真実をご存じだろうか?

■法然と親鸞

 僧侶と女性との乱交と言えば、承元の法難が有名である。かの親鸞も少しばかりかかわった事件でもある。

 承安3年(1173)、親鸞は日野有範(ありのり)の子として誕生した。幼い頃に母に先立たれた親鸞は、わずか9歳で出家した。

 その後、親鸞は歴史書『愚管抄』の著者として知られる慈円(じえん)のもとで得度し、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)で20年余にわたる修行を積み重ねた。

 しかし、親鸞は修行で安心を得られず、建仁元年(1201)に京都の六角堂に百日間籠り続けた。同年、法然の弟子となり、専修念仏に帰依する。そこで勃発したのが、先述した承元の法難なのである。

■承元の法難の全容

 建久9年(1198)、法然は慈円の兄・九条兼実(かねざね)の勧めもあり、『選択本願念仏集』を執筆した。このことが契機となり、法然は絶えず旧仏教からの非難にさらされ、朝廷も対応に苦慮した。

 法然の新しい考え方、つまり専修念仏の教えは旧仏教から否定されていたのだ。法然の行動は、常に危険視されていたということになろう。

 建永元年(1206)、鹿ヶ谷(ししがだに)の草庵で催された念仏法会において、後鳥羽上皇が寵愛する松虫姫と鈴虫姫が参加した。

 松虫姫と鈴虫姫は参加だけにとどまらず、なんと法然の弟子の安楽房(あんらくぼう)と住蓮房(じゅうれんぼう)に懇願して剃髪してしまった。これは、まったく考えられないことだった。

 それだけでなく、松虫姫と鈴虫姫の2人は、上皇が不在の御所に安楽房と住蓮房を招き入れ、宿泊させたのである。これもまた、信じ難い行為だった。

 御所に見知らぬ者を招き入れることは法度であり、しかも2人の姫が無断で出家したことも問題となった。招き入れて宿泊したというのは、性的な行為も伴ったのだろうか。

 これにより、安楽房と住蓮房の師匠である法然、そして親鸞に累が及ぶことは、誰の目にも明らかだった。

■流罪となった親鸞

 これに激怒した後鳥羽上皇は、翌承元元年(1207)に専修念仏を禁止し、安楽房と住蓮房とほか2名を死罪とした。

 加えて、法然は土佐国に配流、親鸞は越後国に流されることになった(ほかに、関係者5名も流罪となった)。

 しかし、九条兼実の懇願により、法然の配流先は讃岐国になった。2人は僧籍を剥奪され、法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」と名乗らされた。法然が許されたのは建暦元年(1211)のことで、その翌年1月に亡くなったのである。

■まとめ

 安楽房と住蓮房は、宗教者にあるまじき行為により、死罪となった。同時に、2人を指導していた法然らも縁座して処分を受けた。いずれにしても、日頃から目をつけられていたのだから、いたしかたなかったのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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